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'''小田 友治'''(おだ ともはる、[[天文_(元号)|天文]]17年([[1548年]]) - [[慶長]]9年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[1604年]][[3月3日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の[[常陸国]]の[[土豪]]、[[武将]]。[[小田氏]]の一族で[[小田氏治]]の長男。[[小田守治|守治]]の庶兄。官位は左京亮。幼名は小太郎。号は帰庵。'''八田 左近'''、帰庵(はった さこん)としても知られる。妻は芳賀伯耆守の娘。<!--- この妻が速水守久と血縁か --->子に、豊臣秀頼家臣となった[[小田義治|義治]]宇都宮為明の養子となった[[小田友重|友重]](宇都宮為明養子)がいる
 
氏治の子であるが、庶子であったため、氏治が[[北条氏康]]と同盟を結んだとき、際にその人質として[[後北条氏|北条氏]]に赴いて、出された。そこでそのまま家臣となり、次の[[北条氏直|氏直]]の代も仕えている。[[天正]]18年([[1590(1590]]北条氏滅亡後は[[豊臣秀吉]]に、のち[[豊臣秀次|秀次]]に1000石で仕える。帰郷と称して東国に出入りし、東国大名の動静を秀吉に伝える、諜報活動いわゆる[[スパイ|間諜]]としての行動もってい。[[朝鮮出兵]]では舟奉行として功があり、播磨国赤穂および[[伊勢国]]羽田で3100石を与えられた。伊勢羽田郷八村を「八田」と改名し、自身も祖先の姓である「八田」と改姓した。[[秀次事件]]の連座で改易の際はとなると、難を逃れてほとぼりが冷めるまで逃走逐電したが、所領は連座改易。その後、[[堀尾吉晴]]の斡旋で[[慶長]]3年([[1598(1598]])に[[徳川家康]]に拝謁し、その後一時[[結城秀康]]に仕える。

[[関ヶ原の戦い]]に際し、では秀康に先駆け(抜け駆けを薦めたことが家康の逆鱗に触れ、秀康の越前転封に際し、同じくてやはり秀康に仕えていた弟・守治小田氏として男)流にあたることからその家臣になることをよう迫られ、結局結城家を退去するに至った。その後やはり小田家や結城家の縁を頼りに[[松平定勝]]に仕えたが、程なくして退去し、致仕。その後[[奈良]]にて隠居の後、[[京都]]東山に移る際に出家し、帰庵と号した。慶長9年([[1604(1604]])2月3日、京都で没したと伝えられる。57歳。南岳院殿磨甎道安大居士。
 
== 関連項目 ==