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'''マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ'''('''Max Christian Friedrich Bruch''', [[1838年]][[1月6日]] - [[1920年]][[10月2日]])は、[[ケルン]]に生まれ[[ベルリン]]で没した[[ドイツ]]の[[作曲家]]、[[指揮者]]、教育者。教師で有名な歌手であった母親から教育を受け、音楽、特に作曲に早くから才能を示した。[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ブルッフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調]]が、ロマン派の協奏曲として特に有名でよく演奏される。他にもヴァイオリンと管弦楽のための『[[スコットランド幻想曲]]』や、チェロと管弦楽のための『[[コル・ニドライ (ブルッフ)|コル・ニドライ]]』がしばしば演奏される。
 
* [[1853年]](15歳) - [[フェルディナント・ヒラー]]と[[カルル・ライネッケ]]に作曲を学ぶ。
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== 作風 ==
ブルッフの作品を第一に特徴づけているのはその[[メロディ|旋律]]性である。ブルッフは魅力的な旋律を生み出すことに長けており、それはほぼ全ての作品全体を覆い、親しみやすいものにしている。「旋律を歌うのに向いていない[[ピアノ]]にはさほど興味を持てない」という趣旨の発言も行っている。
ブルッフの音楽的理想はその活動の最初期に確立され、20世紀に入り[[第一次世界大戦]]を経験する最晩年までその態度を変化させることはなかった。[[ロマン派音楽]]の中でも古典的な理想を掲げており、[[フェリックス・メンデルスゾーン]]や友人でありライバルでもあった[[ヨハネス・ブラームス]]への尊敬は終生変わることがなかった。その一方で[[フランツ・リスト]]や[[リヒャルト・ワーグナー]]ら「[[新ロマン主義音楽#新ドイツ楽派|新ドイツ楽派]]」へは明らかな敵意を持っていた。
 
もう一つの特徴は、[[民族音楽]]への興味である。ブルッフはヨーロッパの様々なうたに興味を持ち、《スコットランド幻想曲》や《コル・ニドライ》をはじめとする複数の作品で民俗的な要素を取り入れている。当時の音楽界では、ブラームスの《[[ハンガリー舞曲|ハンガリー舞曲集]]》や[[アントニン・ドヴォルザーク]]の《[[スラヴ舞曲|スラヴ舞曲集]]》のヒット(ブルッフも同様に出版社ジムロックに依頼されて《スウェーデン舞曲集》作品63を書いている)からも分かるように民俗的な題材への興味が高く、ブルッフがその分野に関わったことは彼の名声を高めた理由の一つでもあった。
 
語法の一貫性も特筆される。ブルッフの音楽的理想はその活動の最初期に確立され、20世紀に入り[[第一次世界大戦]]を経験する最晩年までその態度を変化させることはなかった。[[ロマン派音楽]]の中でも古典的な理想を掲げており、[[フェリックス・メンデルスゾーン]]や友人でありライバルでもあった[[ヨハネス・ブラームス]]への尊敬は終生変わることがなかった。その一方で[[フランツ・リスト]]や[[リヒャルト・ワーグナー]]ら「[[新ロマン主義音楽#新ドイツ楽派|新ドイツ楽派]]」へは明らかな敵意を持っていた。
生前のブルッフは声楽曲の分野を中心に精力的に活動を行い、その人気は一時ブラームスの名声を凌ぐほどであったが、死後前述した少数の作品を除いて急速に忘れ去られ、今に至るまで復権はなされていない。その理由の一つは、彼のスタイルが晩年には完全に時代遅れになっていたことで、[[リヒャルト・シュトラウス]]や[[マックス・レーガー]]ら新しい世代には激しい攻撃を加えたことも、反動家としての彼の評判を広めることになった。また、ユダヤの題材を用いた作品で成功を収めたために[[ユダヤ人]]の血を引くのではないかと疑われ、[[1935年]][[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政府によって上演禁止となっていることも、彼の作品の演奏機会を少なくする理由であった。なお、ブルッフの祖先がユダヤ人だったという確かな証拠は何もない。
 
生前のブルッフは[[合唱]]音の分野を中心に精力的に活動を行い、その人気は一時ブラームスの名声凌ぐほどであっ博したが、死後前述した少数の作品を除いて急速に忘れ去られ、今に至るまで復権はなされていない。その理由の一つは、彼のスタイルが晩年には完全に時代遅れになっていたことで、[[リヒャルト・シュトラウス]]や[[マックス・レーガー]]ら新しい世代には激しい攻撃を加えたことも、反動家としての彼の評判を広めることになった。また、ユダヤの題材を用いた作品で成功を収めたために[[ユダヤ人]]の血を引くのではないかと疑われ、[[1935年]][[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]政府によって上演禁止となっていることも、彼の作品の演奏機会を少なくする理由であった。なお、ブルッフの祖先がユダヤ人だったという説はブルッフ本人や複数の家族が否定しており、確かな証拠は何もない。
 
== 主な作品 ==
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* 『ローレライ』(1863年)
* 『メルミオーネ』(1872年)
 
== 外部リンク ==
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== 弟子 ==
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* [[オスカー・シュトラウス]]
* [[オットリーノ・レスピーギ]] (異論も存在する)
 
== 参考文献 ==
Christopher Fifield(2005), ''Max Bruch: His Life And Works'' George Braziller, New York.
 
== 外部リンク ==
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