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== 人物 ==
旧制[[神奈川県立湘南高等学校|湘南中学]]を経て、[[1944年]]に[[仙台陸軍予備士官学校]]へ入学。翌年卒業し[[秋田]]へ[[見習士官]]として赴任したが、そこで[[終戦]]を迎える。復員直後から[[早稲田大学]][[文学部]]英文学科へ通い、この頃から執筆活動を始める。
 
[[1948年]]、大学卒業と共に[[読売新聞社]]へ入社。社会部の[[記者]]として活動する傍らで執筆活動を行うようになり、同年6月に『川の上』[[1949年]]10月に『死臭』を発表し作家としてデビュー。[[1954年]]には『受胎告知』が第32回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる。
 
この頃までは本名で活動していたが、やがて記者活動との兼ね合いから、[[1955年]]の結婚を境に「菊村到」のペンネームで執筆を行うようになる(後述)。57年「不法所持」で[[文學界新人賞]]受賞。筆名を使ったため、芥川賞候補作家だと知られずに当選していた。