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== 生涯 ==
[[嘉吉]]3年(1443([[1443]])、[[長尾景信]]の子として生まれる。景春の白井長尾家は祖父の[[長尾景仲|景仲]]が[[山内上杉家]]の[[家宰]]を務めてから山内家の筆頭家老となり、父も家宰として勢力を伸ばした。景春も山内上杉家の家臣として[[享徳の乱]]で[[古河公方]]・[[足利成氏]]と戦い、[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])に父と共に成氏の[[古河城]]攻めにも参戦している。
 
文明5年([[1473年]])に父・景信が死去すると、家督並びに山内上杉家当主・[[上杉顕定]]の家宰の地位は叔父の[[長尾忠景|忠景]]が継ぐこととなった。本来なら後継者だったはずの景春はこれに対して不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪するようになる。
 
文明7年([[1475年]])に[[武蔵国|武蔵]][[鉢形城]]に立て籠もり、翌年6月には反乱を起こして、顕定軍を[[五十子陣]]において大いに打ち破った。文明9年([[1477年]])[[1月]]には顕定軍を大いに破り、顕定の勢力を[[上野国]]にまで放逐することに成功した([[五十子の戦い]])。また、上杉氏と敵対する[[豊島泰経]]・[[豊島泰明]]・[[千葉孝胤]]・[[那須明資]]・[[成田正等]]らと同盟を結び[[相模国]]から[[下総国]]に至る関東一円に戦線を拡大した。
 
しかしこのような状況を見た[[扇谷上杉家]]の家宰・[[太田道灌]]が武蔵に勢力を拡張する好機として攻め込んでくる(道灌の母は景春の叔母にあたる)。景春も勇戦したが、名将道灌の八面六臂の活躍の前に各地で敗れて景春の勢威は衰退する。このため景春は足利成氏の支援を受けることで、何とか道灌と戦い続けた。しかし文明10年([[1478年]])、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と成氏の間で和議が成立すると景春は後ろ盾を失ってしまい、結果として道灌に攻められて鉢形城は落城し、景春は武蔵国を追われてしまった([[長尾景春の乱]])。
 
やがて道灌が[[暗殺]]されると、成氏の元にいた景春は道灌を討った後に顕定に攻められていた[[上杉定正]]に加担して相模国に入り顕定と戦う([[長享の乱]])。[[永正]]2年([[1505年]])には上野国に戻って[[白井城]]に入ったが、顕定の養子・[[上杉憲房 (戦国時代)|憲房]]に攻められて白井城は落城し、景春は[[柏原城]]に逃亡してなおも顕定と対抗しようとする。
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ところがその顕定は永正6年([[1509年]])、景春の同族で[[越後国|越後]][[守護代]]・[[長尾為景]]と戦って戦死してしまった。これを好機ととらえた景春は、白井城で敗軍をまとめていた憲房を攻めて白井城を奪還した。そしてその後は相模で自立していた[[戦国大名]]・北条早雲と同盟を結んで、憲房とあくまで対抗した。ただし、晩年はあくまでも自立を目指す景春と、憲房と和睦して[[上杉顕実]]を倒そうとする嫡男の景英とが対立して、景英によって景春は城主の地位を奪われたとする説もある。
 
永正11年(1514([[1514]])8月24日(異説として[[9月]])に死去。[[享年]]72。後を景英が継いだ。
 
景春が文明8年から数十年にわたって反乱を続けたことは、結果として関東における上杉氏の勢力を大いに衰退させることにつながった。早雲は景春を「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。