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{{基礎情報 中国君主
|名 =元帝 曹奐
|代数 =第5
|呼称 =皇帝
|画像 =
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|在位期間 =[[260年]] - [[265年]]
|都城 =
|諱 =曹璜→曹奐
|字 =景明<ref>小説『[[三国志演義]]』では'''景召'''或いは'''景昭'''とされている。</ref>
|字 =景明
|諡号 =元皇帝
|廟号 =
|生年 =[[正始 (魏)|正始]]7年([[246年]]
|没年 =[[太安 (晋)|太安]]元年([[303年]]
|父 =燕王・[[曹宇]]
|母 =張氏([[張魯]]の娘)?
|皇后 =[[卞皇后 (曹奐)|卞皇后]]
|陵墓 =
|年号 =[[景元]] : [[260年]] - [[264年]]</br>[[咸熙]] : [[264年]] - [[265年]]
|注釈 =初名は'''璜'''(または'''璞''')であるが[[避諱]]を考慮し即位後'''奐'''に改名した
}}
'''曹奐'''(そう かん)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の第5代[[皇帝]]。[[字]]諡号は'''景明元帝'''。小説『[[三国志演義]]』では'''景召'''或いは'''景昭'''とされている。武帝[[曹操]]の孫。[[曹宇]]の末子にあたる
 
==概要生涯==
燕王[[曹宇]]の末子として生まれる。[[甘露 (魏)|甘露]]3年([[258年]])に常道郷公に封じられた。
[[260年]]、先代皇帝の[[曹髦]](高貴郷公)が[[司馬昭]]の専横に反抗し挙兵したが、逆に殺害されてしまったため、その後継として即位した。実態は司馬昭の傀儡に過ぎなかった。
 
[[景元]]元甘露5年([[260年]])、先代皇帝の[[曹髦]]が[[司馬昭を[[相国]]の専横しよ憤り、司馬昭を取り除こうとしたが、逆に殺害されてしまったため、その後継として即位した。実態は司馬昭の傀儡固辞され過ぎなかった。
 
[[景元]]元年(260年)、司馬昭を[[相国]]にしようとしたが、司馬昭に固辞された。
景元三年([[263年]])、[[トウ艾|鄧艾]]・[[鍾会]]が[[蜀漢]]を攻め、これを滅ぼした([[蜀漢の滅亡]])。
 
景元4年([[263年]])、[[トウ艾|鄧艾]]・[[鍾会]]が[[蜀漢]]を攻めこれを滅ぼした([[蜀漢の滅亡]])。
 
[[咸熙]]元年([[264年]])、司馬昭を晋公から晋王とした。
 
咸熙2年([[265年]])8月、司馬昭が死去し[[司馬炎]]が晋王を継いだ。同年12月、曹奐元帝は司馬炎に[[禅譲]]し、魏は5代45年で滅亡して[[西晋|晋]]に替わった。この時、[[数え年]]20歳だった。退位した後は陳留王に封じられ、[[ギョウ|鄴]]に移り住み、陳留王に封じられたんだ
 
[[303年]]、[[八王の乱]]の最中の[[太安 (晋)|太安]]元年([[303年]])に58歳で崩御死去した。
 
現在の[[河北省]]に、彼曹奐の墓が現存している。
 
=== 曹氏のその後の曹氏 ===
曹奐の没後も[[ (王朝)|晋朝]]および[[宋 (南朝)|宋朝]][[冊封]]下の[[諸侯王]]として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王朝の下で陳留王を相続した。
 
曹奐の子の名は不明だが、[[太寧 (東晋)|太寧]]3年([[325年]]、曹操の玄孫である曹勱が[[東晋]]によって陳留王に封じられた。[[升平]]2年([[358年]])に死去し、[[363年]]子の曹恢が跡を継いだ。曹恢は[[太元 (東晋)|太元]]3年([[378年]])に死去し<ref>『[[晋書]]』「帝紀第八」。</ref>、太元8年([[383年]])に子の曹霊誕が跡を継いだ<ref>『晋書』「帝紀第九」。</ref>。曹霊誕は[[義熙]]4年([[408年]])に死去した<ref>『晋書』「帝紀第十」。</ref>。[[元熙 (東晋)|元熙]]2年([[420年]]、[[劉裕]]が東晋から禅譲を受けて宋となっを建国したが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹虔嗣が名を連ねている<ref name="anime">『[[宋書]]』「本紀第六」。</ref>。曹虔嗣は同年死去し<ref>『宋書』「本紀第三」。</ref>、弟の曹虔秀が跡を継いだ。曹虔秀は[[大明 (南朝宋)|大明]]6年([[462年]])に死去し<ref name="anime">『宋書』「本紀第六」。</ref>、子の曹銑が跡を継いだ。曹銑は[[元徽 (南朝宋)|元徽]]元年([[473年]])に死去した<ref>『宋書』「本紀第九」。</ref>。[[昇明]]3年([[479年]]、[[蕭道成]]が宋から禅譲を受け[[斉_ (南朝)|斉]]となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王の曹粲が名を連ねている。同年8月、曹粲は王位を除かれた<ref>『[[南史]]』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『[[南斉書]]』には記述無し。</ref>。
 
==脚注==
{{reflist}}
<references/>
 
{{先代次代|[[中国]]北部の[[中国帝王一覧|皇帝]]|260年 - 265年|[[曹髦|廃帝]]|[[司馬炎]]<br><small>([[西晋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]])</small>}}
{{先代次代|[[中国]]西南の[[中国帝王一覧|皇帝]]|263年 - 265年|[[劉禅|後主]]<br><small>([[蜀漢]]の[[中国帝王一覧|皇帝]])</small>|[[司馬炎]]<br><small>([[西晋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]])</small>}}
 
{{魏 (三国)の皇帝||第5代:260|260年 - 265年}}
 
{{DEFAULTSORT:そう かん}}
[[Category:曹氏|かん]]
[[Category:三国志の登場人物]]
[[Category:魏晋南北朝時代の人物]]
[[Category:三国時代の皇帝]]
[[Category:登場人物幼君]]
[[Category:246年生]]
[[Category:302年没]]