「ルディ・サーゾ」の版間の差分

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→‎ディスコグラフィ: 再編(彼はクワイエット・ライオットの2ndのレコーディングには参加していません)
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1978年に[[クワイエット・ライオット]]に参加してアルバムを制作(演奏はしていない)するも、[[日本]]でのみ発売というローカルなものであった。1981年3月、親友[[ランディ・ローズ]]の推薦により[[オジー・オズボーン]]のバンドに加入し、名を広める。アルバム『[[ダイアリー・オブ・ア・マッドマン]]』に伴うツアーの模様は後に『[[トリビュート〜ランディ・ローズに捧ぐ]]』として、さらに[[ブラック・サバス]]の楽曲ばかりを演奏した『[[悪魔の囁き (アルバム)|悪魔の囁き]]』として残っている。
 
1982年9月にバンドを脱退してクワイエット・ライオットに戻る。この時に発表したアルバム『[[メタル・ヘルス〜ランディ・ローズに捧ぐ〜]]』は600万枚を売り、[[ビルボード]]・ポップ・チャートで初登場1位を獲得した初めてのヘヴィ・メタル・バンドとなった。続く『[[コンディション・クリティカル]]』でも300万枚の大ヒットとなった。
 
1987年4月にトミー・アルドリッジと共に[[ホワイトスネイク]]の一員となって『[[白蛇の紋章〜サーペンス・アルバス]]』のビデオとアルバムをサポートするツアーに参加、華やかなステージ・パフォーマンスは当時のロック・シーンに合致し、大きな人気を得ることになった。続く『[[スリップ・オブ・ザ・タング]]』の制作に参加し、これもマルチ・プラチナに輝く大ヒットとなる。しかしツアー後にバンドは崩壊し、グレイテスト・ヒッツ発売に伴うツアーが終了した1994年9月にホワイトスネイクは完全に解散する(のちの再結成には関与せず)。この頃、ホワイトスネイクの元メンバーやロン・ヤングと共にマニック・エデンを結成し、アルバムを1枚発表。