「松倉勝家」の版間の差分

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寛永7年([[1630年]])に父の重政が急逝した後を受けて藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめるようになった。寛永11年([[1634年]])になると悪天候と[[旱魃]]が凶作を引き起こしたが、勝家はたとえ凶作でも容赦せず、重い年貢の取立てを行った。米や農作物の取立てだけでなく、重ねて人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して取り立てたことは多くの記録によって証言されている(『[[鍋島勝茂]]公譜』、[[カピタン|オランダ商館長]][[ニコラス・クーケバッケル]]の日記など)。
 
やがて勝家は年貢を納められない農民やその責任者である[[庄屋]]から、妻や娘を人質にとるようになる。前述のクーケバッケルや島原の乱の記録を残した[[長崎市|長崎]]の[[ポルトガル]]人[[ドアルテ・コレア]]は、娘や子供が[[蓑]]を着せられ、それに火をつけて苦しむ姿を「[[蓑踊り]]」と呼んでいたという記録を残している(蓑踊りが処刑だったか、それとも拷問の手段だったかは今でも疑問が多い)。
 
『[[黒田長興]]一世之記』によれば寛永14年([[1637年]])10月、口の津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]、耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害した。これが[[島原の乱]]の始まりである。