「桓宗 (西夏)」の版間の差分

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{{基礎情報 中国君主
|名 =桓宗 李純祐
|代数 =6
|呼称 =皇帝
|画像 =
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|諡号 =昭簡皇帝
|廟号 =桓宗
|生年 =[[乾祐 (西夏)|乾祐]]8年([[1177年]]
|没年 =[[応天 (西夏)|応天]]元年([[1206年]])3月
|父 =[[仁宗 (西夏)|仁宗]](長子)
|母 =章献欽慈皇后羅氏
|皇后 =
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|注釈 =
}}
'''桓宗'''(かんそう)は、[[西夏]]の第6代皇帝。[[仁宗 (西夏)|仁宗]]の長男
 
== 生涯 ==
'''桓宗'''(かんそう)は、[[西夏]]の第6代皇帝。
 
<!-- 桓宗の政策は先代の仁宗の政策を継承したものであり、国内的には民力の涵養を、対外的には[[南宋]]及び[[金 (王朝)|金]]との共存に努めた。 -->
[[天慶 (西夏)|天慶]]7年([[1200年]]に母羅太后が病に罹ると、金から医師を呼んで薬を処方させた。
 
天慶12年([[1205年]]に西夏は初めて<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注)、83頁</ref>[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]率いる[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍の侵入を受ける。モンゴル軍の包囲を受けた力吉裏(エリンリキ)の城砦は陥落し、経落思(ケレンクルシ)城は略奪され、住民と[[ラクダ]]がモンゴルに奪われた<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注)、85頁</ref>。翌[[応天 (西夏)|応天]]元年([[1206年]]に羅太后と甥の李安全([[襄宗 (西夏)|襄宗李安全]]を中心とする一派によって帝位を廃され<ref>「七月、使純佑母羅氏為表、言純佑不能嗣守、与大臣定議立安全為王、遣使奏告。」、『金史』巻134、列伝72、外国上</ref>、配所で没した<ref>「泰和六年三月、仁孝弟仁友子安全、廃純佑自立、再閱月死於廃所。」、『金史』巻134、列伝72、外国上</ref>。
 
== 脚注 ==
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* 『[[宋史]]』巻486、列伝245、外国2、夏国下
 
{{先代次代|[[西夏]]の第6代[[中国帝王西夏の君主一覧|皇帝]]|第6代:11931193年 - 1206年|[[仁宗 (西夏)|仁宗]]|[[襄宗 (西夏)|襄宗]]}}
 
{{DEFAULTSORT:かんそう}}
[[Category:西夏の皇帝]]
[[Category:中国の幼君]]
[[Category:1177年生]]
[[Category:1206年没]]