「如意ヶ嶽」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hman (会話 | 投稿記録)
Evilemon (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
12行目:
|初登頂 =
}}
'''如意ヶ嶽'''(にょいがたけ<ref>『京都市の地名』、『東山三十六峰 -京都案内記-』、『角川日本地名大辞典』などによれば、濁らない。</ref>、にょいがだけ)は[[日本]]の[[京都]]、[[東山]]に存在する[[山]]。標高472メートルで、山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。他の表記・呼称は如意ヶ嶽、如意嶽、如意岳、如意ヶ峰(にょいがみね)、如意山(にょいやま)など。また如意ヶ嶽は[[京都市]][[左京区]]と[[滋賀県]][[大津市]]の境ともなっており、鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」(にょいごえ)と呼ばれ、これは京と[[近江]]の近道とされ<ref name = shouwa />[[如意嶽の戦い]]など合戦の舞台になったことがあるほか、[[城跡]]も残っている(後述)。また古来より信仰を集めた山であり、山中にはかつて大規模な山岳寺院・如意寺(にょいじ)が在った。
 
支峰(西峰)として標高465.4メートル<ref group = *>466メートルとの表記も一般的。国土地理院の平成9年の1/10000地図では465.95メートル。国土地理院のwebによる地図閲覧サービスでは2012年5月現在、465.4メートル。京都市計画局平成19年1/2500の地図では465.44メートル。</ref>の'''大文字山'''(だいもんじやま)があり<ref>『京都 大文字五山送り火』</ref>、8月16日に執り行われる京都の伝統行事、[[五山の送り火]]の大文字として著名であり、逸話も多い。この大文字山はその山上から京都市内を一望でき、ハイキングコースとしても人気がある。本項では如意ヶ嶽と同時に支峰の大文字山なども併せて解説する。<!--
187行目:
== 施設・史跡 ==
=== 中尾城・如意ヶ嶽城 ===
{{see also | 如意嶽の戦い}}
{{節stub}}
如意ヶ嶽は京の東の口、京と大津を繋ぐ経路の一つとして要衝であり、如意城(にょいのじょう<ref>読みは『拾遺都名所図会』による。</ref>)、如意ヶ嶽城、あるいは[[中尾城]]と呼ばれる城が築かれていた。正確な所在については諸説あり、慈照寺の裏に当たる中尾山とも、如意ヶ嶽と大文字山の間であるとも言われているが、現在は二つ存在したとする説が有力である<ref group = *>『京都坊目誌』では同一のものとしているが、『資料京都の歴史 8』などでは別の物とされている。別々とした場合、その位置はかなり離れたもの。両城をプロットした地図については『資料京都の歴史 8』、『第49とれんち』、『京都市遺跡地図台帳』などを参照。</ref>。
 
一つは中尾城と呼ばれ、如意ヶ嶽の北西の支峰、中尾山に遺構が見られている<ref name = shouwa />。1549年(天文18年)には[[足利義晴]]および細川晴元が築城を行ったとされ、『[[万松院殿穴太記]]』ではその威容について「名城」であるなどと言及している<ref name = shouwa />。翌1550年11月に落城、焼失した。京都市遺跡地図台帳420。
195行目:
もうひとつは如意ヶ嶽城などと呼ばれ、如意ヶ嶽山頂・大文字山山頂付近。『[[応仁記]]』巻三、応仁別記(15-16世紀頃)または[[大乗院寺社雑事記]](1471年、文明3年)によれば、1496年(文明元年)5月に[[多賀高忠]]が如意ヶ嶽に布陣したとの記述がある。恒久的な築城がなされたわけではないと見られるが<ref>『資料京都の歴史 8』p.180、および別添地図。</ref>、現在も空堀や土塁などの遺構が残っている<ref name = hakken1 />。京都市遺跡地図台帳423。
 
隣接地域には[[将軍山城|北白川城]]、[[東岩倉山城]]など、他にも山城が見られる<!-- 『50とれんち』では北白川城との連携についても言及が見られている。--><ref name = omou /><ref name = miura /><ref name = yamaaruki /><ref name = kyoutoshino_chimei /><ref name = siryou_shishigatani />。
 
=== 如意寺 ===