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1930~1940年代ごろには「'''ライカ1台あれば家が一軒建てられる'''」と言われた。例えばアサヒカメラ1939年11月号に掲載されている'''ライカIIIa'''クローム+'''エルマー'''50mmF3.5の価格は820円、'''ライカIIIa'''クローム+'''ズマール'''50mmF2は1200円であった。当時小さな貸家が500円で建てられ、1000円あれば場所にもよるが東京で土地付き一軒家が購入できた<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.81。</ref>。ただし、これには「カメラが高かった」ということだけでなく第二次世界大戦突入によりドイツからの輸入が困難になって価格が高騰した時期であることや、東京の土地が今より格段に安かったという要素もある。
当時のライカユーザーには、[[警視庁]]の[[警察官]]だった[[石川光陽]]などが居る<ref>石川は、実家の家業が写真屋であり、それに伴って[[東京大空襲]]当日の惨情を写真に収める特命を当時の警視総監だった[[坂信彌]]より直々に受けている。</ref>。
 
== 歴史 ==
=== エルンスト・ライツ ===
ライカの前身は1849年に[[カール・ケルナー]]が[[ヘッセン州]][[ヴェッツラー]]で設立した顕微鏡メーカー'''オプティシェス・インスティトゥート'''(''Optisches Institut'' )である。ケルナーの死後その会社をその未亡人が引き継いだが、従業員だった'''フリードリヒ・ベルトレ'''(''Friedlich Berthle'' <ref group="注釈">レンズ設計者の[[ルートヴィッヒ・ベルテレ]]とはスペルも違い無関係。</ref>、-1869年)がケルナーの未亡人と結婚し、社名を'''オプティシェス・インスティトゥート・ケルナー・ウント・ベルトレ'''(''Optisches Institut Kellner Und Berthle'' )とした<ref>『ツァイス・イコン物語』p.53。</ref>
 
その後、以前スイスの工場で働いていた'''ユンカース'''という見習いを雇用したが、この男が以前働いていたスイスの工場で行なわれていた効率的な生産方法について説明していた際に、さらにその方法について詳しい機械工'''エルンスト・ライツ1世'''(''Ernst Leitz I'' 、1843年-1929年)を紹介し、雇用するようベルトレに勧め、1865年にこの会社にエルンスト・ライツ1世が参加することとなった<ref>『ツァイス・イコン物語』p.53。</ref>
 
1869年にベルトレが亡くな死去するとエルンスト・ライツ1世は事業を引き継ぎ、社名を'''オプティシェス・インスティトゥート・フォン・エルンスト・ライツ'''(''Optisches Institut Von Ernst Leitz'' )、さらに'''エルンスト・ライツ・オプティッシェ・ヴェルケ'''(''Ernst Leitz Optische Werke'' )とした<ref>『ツァイス・イコン物語』p.54</ref>。[[1905年]]にはボディー本体を[[ヒュッティヒ]]に外注しカメラ生産に参入、[[1907年]]には双眼鏡生産に参入した。
 
=== カメラのブランドとしてのライカ ===
エルンスト・ライツに勤めていた技術者[[オスカー・バルナック]]は[[1914年]]<ref>[http://jp.leica-camera.com/culture/history/leica_products/ ライカカメラAG公式ウェブサイト]</ref>、35mm映画用フィルムの2駒分を使用する小型カメラを試作した。これは後にライカの起源として「ウル・ライカ」と呼ばれることになるが、この段階ではライカという名前はない。試作した理由として「無類の写真好きであったが、小柄で体力もさほどなかったバルナックにとって当時主流の13×18cmガラス乾板を使用する木製大型カメラを持ち歩くことは困難だったため、自分にとって使いやすいカメラを求めて作り上げた」という説<ref>『クラシックカメラ専科』p.68。</ref><ref>『クラシックカメラ専科No.19ライカブック'92』p.126。</ref>、「映画用カメラの開発に従事していたバルナックが、当時感度も低く品質も安定していなかった映画用フィルムの適正露出を調べるためにそのフィルムの一部を使い実際に撮影してチェックするために開発した露出テスト用カメラが、スチルカメラとしても流用できることに気づいた」という説など諸説ある。
 
[[1920年]]にはエルンスト・ライツ1世が亡くなり、跡を継いだ'''エルンスト・ライツ2世'''(''Ernst Leitz II'' )がウル・ライカに着目、改良を加えさせた。折しも大不況の中、社内会議で発売中止に傾く中、'''エルンスト・ライツ2世'''はこれを製造に移すと宣言<ref>『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』p.5。</ref>し、「ライツのカメラ」('''''Lei'''tz '''Ca'''mera'' )との意で「ライカ」と名付け[[1925年]]に市販一号機'''ライカI(A)'''を生産、販売することになった。
 
それまでのカメラは密着焼きにより写真を作るのが主流であったが、ライカはフィルムが小さく引き伸ばしを前提としたため、当時一般的でなかった引き伸ばし機が当初からシステムの一環として販売された。拡大に耐えるネガを作るために高性能のレンズが必要とされ、レンズ開発の技術者[[マックス・ベレーク]]は'''ライツ・アナスティグマット'''(''Leitz-Anastigmat'' )をはじめとするさまざまな銘玉を世に出した。
 
また一般には「広角気味のレンズを常備し必要ならトリミングする」という手法が使われていたが、ライカの場合トリミングするとただでさえ小さいフィルム面積からの拡大率がより大きくなるため、画角に合ったレンズ交換の必要性が高かった。このため[[1930年]]レンズ交換が可能なライカC型が開発され、[[1931年]]に全てのカメラの[[フランジバック]]が統一され、'''エルマー'''(''Elmar'' )3.5cmF3.5、'''エルマー'''5cmF3.5、'''エルマー'''9cmF4、'''エルマー'''13.5cmF4.5、そして'''ヘクトール'''(''Hektor'' )5cmF2.5と基本的なレンズが揃った。
 
[[1932年]]連動距離計を搭載した'''ライカII型'''を発売、交換レンズとして[[1931年]]'''ヘクトール'''7.3cmF1.9、1933年に'''ズマール'''(''Summar'' )5cmF2が発売され、とりわけ報道写真において卓越した画像を多数提供したため、ライカの名声は不動のものとなった。また[[1934年]]に極めて優秀な人物撮影用のレンズ、'''タンバール'''(''Thambar'' )9cmF2.2が供給され、現代の写真撮影のライカ判全盛の基礎を確立した。
 
小さいフィルム面積に重要な画像情報が凝縮されていることから画質が損なわれがちだとして、旧来のフォトグラファー写真家からは「撮影機材ではなく『スパイカメラ』にすぎない」等と蔑視されることもあった。しかし暗い場所での撮影のための大口径レンズ、広角や望遠での撮影のための交換レンズを揃えても2~3kgに収まり、写真家はかつての重い撮影機材から解放された。このことは僻地に持参する時や、被写体の動きを素早く捉えたい時にも役立った。
 
1950年代ごろまでの日本のカメラメーカーはライカを目標にして小型カメラの技術開発を行なっていたが、[[1954年]]に発表された'''ライカM3'''は[[レンジファインダーカメラ]]として当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を[[一眼レフカメラ]]へと開発方針を大転換させるきっかけになった。'''ライカM3'''は今でも名機と賛美する人が絶えないが、このことが逆に現在主流の一眼レフカメラへのライカの参入を遅らせてしまうことにもなった。
 
=== ミノルタとの提携、ウィルド傘下へ ===
一眼レフカメラ化と低コスト化に乗り遅れたためやがて経営に陰りが出たエルンスト・ライツは、一眼レフカメラ開発で先行する日本の大手カメラメーカーからミノルタカメラ(現[[コニカミノルタホールディングス]])に注目、まずM型ライカの外装部品製造を依頼、このことから両社の技術者の相互出張見学を通じて親交を深めていくこととなる。それから数年経過した[[1972年]]、エルンスト・ライツはミノルタカメラとカメラの製造を目的とした両社の特許やノウハウの相互提供、技術者の相互派遣、生産設備の相互利用による生産協力等相互協力協定を結んだ<ref>『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.78。</ref>。エルンスト・ライツが外国企業と提携したのは初めてのことで、この提携ニュースは日本・アメリカ・ドイツで大きく報道された。この協力関係に基づき、両社の技術者が協力してミノルタカメラの工場で設計した'''ライカCL'''を[[1973年]]9月に発表・発売に漕ぎ着け、'''ライカフレックスSL2'''をほとんどミノルタカメラで生産、'''ミノルタXE'''の基本構成を'''ライカR3'''以降に流用したりと一定の成果を上げた。その後提携は解消されたが、この技術提携によって双方の技術がその後の両社の技術開発に多大な影響を与えた。
 
しかし経営好転までには至らず、[[1973年]]のうち<ref>『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.78。</ref>に、もしくは[[1974年]]<ref>『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.38。</ref>スイスのウィルドがライツ一族の株式を買い取った。エルンスト・ライツ3世は代表権を失い、[[1979年]][[9月8日]]死去した<ref>『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.79。</ref>。株式の53%を取得したウィルドの傘下で「当面ライカの製造は続ける」と発表されたが、[[1974年]]に生産され[[1975年]]に販売されたライカ発売50周年記念モデルを最後にウェツラー工場での生産は途絶え、社員6500名の過半数を減員し工場も整理され<ref>『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.78。</ref>、かろうじてポルトガル工場で'''ライカR3'''の製造が続けられるだけとなった。機械が搬出され倉庫が整理され競売にかけられたためにライカ発売以来一般人の目に触れることのなかった試作品等が突然流通するようになり<ref>『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』p.79。</ref>、この混乱の中で発売された'''ライカM4-2'''の初期製品では、検査部門の存在自体疑われるような不良品が流通した<ref>『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.39。</ref>。その後はどこでライカを製造しているのかよく分からない状態が続いた。
 
=== メーカー名となったライカ ===
[[1988年]]になると「ウィルドはライカを製造しないので、工場を出た人たちでブランドを使用しても良い」旨の発表がされ、ソルムスに敷地が用意されたがエルンスト・ライツ・ウェツラーの名称は使用許可されなかったためメーカー名を「ライカ」とし、ウィルドの子会社としてカメラメーカーを立ち上げた。[[1990年]]に「ライカカメラ」に商号変更した。
 
その後[[エルメス]]の資本も一時期入り、その時期にはその革を使用した特別モデル等も発売されていたが、経営状態の改善が進まずエルメスは撤退した。[[2009年]]現在は次の3社に分かれている。
 
* '''ライカカメラ'''(''Leica Camera AG'' )- カメラ部門。ドイツに本社。
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=== 松下電器産業との提携 ===
*[[2000年]]、松下電器産業(現[[パナソニック]])とデジタルAV機器用レンズに関する技術協力契約を締結、'''ディコマー'''(''DICOMAR'' )レンズを搭載したデジタルビデオカメラなど3機種を開発・発売している。松下とはそれ以前からフィルム・コンパクト機(製造は松下系列の旧ウエスト電気(現[[パナソニック フォト・ライティング]]))のOEM供給を受けている。さらに[[2001年]]にはデジタルカメラ分野においても提携を行い、レンズの光学系はライカと共同開発を行いライカのライセンスを受けて生産を行っているほか、松下からのOEM供給によるライカブランドでの販売も行っている。松下が[[フォーサーズ・システム]]によるデジタル[[一眼レフカメラ]]に参入した際にも同規格に賛同し、レンズのライセンス許諾による供給を行なうことになっており、ライカブランドでも'''[[パナソニック・ルミックスDMC-L1|DMC-L1]]'''のOEMモデル'''[[DIGILUX 3]]'''が発売されている。
 
== 代理店 ==
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ライカLマウントの[[レンジファインダーカメラ]]。ただし初期にはレンズ固定であり、レンジファインダーを搭載しなかった。レンジファインダーを装備しない機種も後々まで作られた。''レンズに関しては[[ライカマウントレンズの一覧]]を参照のこと。''
 
わずかな例外を除き、[[135フィルム]]を使用し24×36mm(ライカ)判。裏蓋が開かず底板を外してフィルム装填を行なうため、装填前にフィルム下側の舌部分を長くするよう15cm程切っておく<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.86。</ref>か、テレホンカードや名刺等を靴べらのように使って滑り込ませる必要がある<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.87。</ref>。[[1970年]]頃までは切った状態で販売されていた<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.86。</ref>。また現行当時はパトローネ入り自体が手に入らずまた手に入ったとしても高価につくため、缶に入った100ft長巻きを暗室で両手を拡げた長さで切りマガジンに装填して使用する人が多かった<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.84。</ref>。
*'''ウル・ライカ'''(''Ur Leica'' 、[[1914年]]製作) - 試作機。暗室で35mm映画用フィルムを詰め、その2コマを1コマとして使用する。「Ur」とは[[ドイツ語]]で「最初の」を意味する。フィルム巻上と同時にシャッターがセットされる[[セルフコッキング]]方式。巻上時にはキャップをしなければならない。レンズは二段に沈胴するマイクロズマール64mmF4.5固定。当時はまだパトローネ入りフィルムはなかったので、装填取り出しは暗室で行う。3台が製作され、1台はバルナックが自分用に使い、もう1台はエルンスト・ライツ1世が所有した。その内の2台が現存している。<ref>『世界の珍品カメラ』p.138。</ref>。[[1975年]]にライカ発売50周年を記念した[[レプリカ]]が製作され代理店などに配られたが、これは外観だけを再現した[[ダミー]]であったため撮影には使えない。
*'''ライカ0'''(''Null Leica'' 、[[1923年]]製作) - ウル・ライカの市場調査用としてシリアルナンバー100から130129までの31台が製作されたが市販はされなかった。形式名も後でつけたものである。金属剥き出しの黒塗りだったボディーに革が張られた。ファインダーは当初折畳式の枠ファインダーだったが後にガリレオ式に変更されている。レンズは沈胴式ライツ・アナスチグマット(''Leitz-Anastigmat'' )50mmF3.5固定。シャッタ−はスリット幅可変となりスリット幅2mm(1/500秒相当)-50mm(1/20秒相当)。マガジンを採用し日中のフィルム交換が可能になったが、シャッター幕の構造上フィルム巻き上げ時にはレンズキャップを付けなくてはならない。[[2001年]]に折り畳み式のファインダーを装備したバージョンの復刻版が販売され、このモデルでは[[135フィルム]]が使用できるようになっている。
[[ファイル:Leica-I-1.jpg|thumb|right|I]]
*'''ライカI(A)'''(''Leica I''、''Leica A'' 、[[1925年]]発売<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>) - 春[[ライプツィヒ]]の見本市に「ライカカメラ」として出品された<ref>『世界の珍品カメラ』p.138。</ref>。レンズは沈胴式固定、当初3群5枚ライツ・アナスチグマット(''{{lang|de|Anastigmat}}''、174台)50mmF3.5であったが、1925年内容はそのままにエルマックス(''{{lang|de|Elmax}}'' 、1000台)と改名された。エルマックスは最短撮影距離1m。日本に最初に輸入されたライカはエルマックスつきのシリアルナンバー377である<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.84。</ref>。ピント合わせは[[ライカの商品コード|コード]]FODIS単独距離計を使用する<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>。ライツの予想に反して1925年のうちに約1000台が売れ、後玉が3枚張り合わせで製造が面倒なエルマックスの製造が間に合わないため[[1926年]]に[[ゲルツ]]からガラスの供給を受けて製造された沈胴式3群4枚エルマー(''{{lang|de|Elmar}}'' )50mmF3.5を装備した<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>が、ゲルツが1926年に[[ツァイス・イコン]]になってガラスの供給が止まると1928年にはショットから供給されたガラスでエルマー50mmF3.5が設計された<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.019。</ref>。ゲルツから供給されたガラス材で製造されたエルマーを「旧エルマー」、ショットから供給されたガラス材で製造されたエルマーを「新エルマー」と俗称する。一部のエルマーには0.45mまで近接可能なものがある。1930年からは後に交換レンズとしても供給された沈胴式ヘクトール(''{{lang|de|Hector}}'' 、1330台)50mmF2.5固定となった<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>。
**'''ライカI(A)ライツ・アナスチグマット付き''' - 当初レンズには3群5枚の'''ライツ・アナスチグマット'''(''{{lang|de|Anastigmat}}'' )50mmF3.5を装着していた。シリアルナンバーは130から285前後、'''ライカI(A)エルマックス付き'''との切り替え時期は明確でない。生産台数は150台程度である。最短撮影距離1m。
**'''ゴールデンライカ'''([[1929年]]発売) - ライカの成功を記念しクリスマスにシリアルナンバー34803から34818の16台がワニ皮ケースに入れられ発売された<ref>『クラシックカメラ専科』p.69。</ref>。金仕上げ、革張りである点以外一般の'''ライカI(A)'''との違いはない。
**'''ライカI(A)エルマックス付き''' - 内容はそのままに、レンズ名をエルンスト・ライツの「エル」と[[マックス・ベレーク]]のマックスを組み合わせて'''エルマックス'''(''{{lang|de|Elmax}}'' )と改名した。最短撮影距離1m。日本に最初に輸入されたライカはエルマックスつきのシリアルナンバー377である<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.84。</ref>。シリアルナンバーは280から1300前後で、生産台数は約1000台。
*'''ライカI(B)'''(''Leica I''、''Leica B'' 、[[1926年]]発売<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.019。</ref>) - フォーカルプレーンシャッターではなく[[デッケル]]製[[レンズシャッター]]コンパーを装備したため「コンパーライカ」と俗称される<ref>『世界の珍品カメラ』p.140。</ref>。巻き上げとシャッターチャージが同時にでき二重写しを防げる特徴を捨ててしまいまたシャッターが回転へリコイドに取り付けられていたためピント合わせでシャッター位置が変更されてしまい操作性が悪かった<ref>『世界の珍品カメラ』p.140。</ref>。'''ライカI(A)'''では無限遠から1mまでの間にヘリコイドは1回転するが、このカメラではピッチを変えることで1/4回転とし、少しでもシャッターレリーズの位置が変わらないようにとの努力はしている。当初ダイヤルセットコンパーで1928年リムセットコンパーに変更された<ref>『世界の珍品カメラ』p.140。</ref><ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>。公式にはダイヤルセットモデルが638台、リムセットが969台<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.019。</ref>。シリアルナンバーは5701から51715までの中にあることになっているが、この番号外の製品も多い<ref>『クラシックカメラ専科』p.69。</ref>。企画された理由として「普及版」「スローシャッターの要望に応えた」等という俗説があるが、1979年までの人生の大半をライツで勤務したエミール・G・ケラー(''Emil G. Keller'' )によれば'''ライカI(A)'''のシャッターに根本的欠陥があって寒冷地で動作しなくなった上に幕がべたついて交換が必要となり、その間客に渡す代替機が必要になったからである。このトラブルは[[ラーン川]]から氷を採取して寒冷テストを行ないシャッターベアリング径を拡大するとともにアメリカの[[グラフレックス]]から幕を輸入して解消し、このカメラも製造中止された<ref>『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.126。</ref>。企画された経緯と、1970年代末のエルンスト・ライツ崩壊の際に放出された資材の中にかなり多数のコンパー付きエルマーが入っていたことから、片山良平はライツでこのカメラを回収し破棄された可能性に言及している<ref>『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.126。</ref>。レンズシャッターを装備したライカはこの機種だけである。
**'''ライカI(A)旧エルマー付き''' - エルンスト・ライツの予想に反して1925年のうちに約1000台が売れ、後玉が3枚張り合わせで製造が面倒な'''エルマックス'''の製造が間に合わないため[[1926年]]に[[ゲルツ]]からガラスの供給を受けて製造された沈胴式3群4枚エルマー(''{{lang|de|Elmar}}'' )50mmF3.5を装備した<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>。シリアルナンバー1,300前後から12,000-13,000台が生産された。
*'''ライカI(C)'''(''Leica I''、''Leica C'' 、[[1930年]]発売<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>) - いわゆる「ライカマウント」<ref group="注釈">外径38.9mm、内径37.9mm。</ref>を装備しレンズ交換を可能とするが、当初はフランジバックが統一されておらず、ボディーの製造番号下3桁とレンズに刻印された3桁の数字が合致する場合しか使えなかった。50mmのファインダーのみ装備する。初期には135mmの回転式視野マスクを備える個体がある。シリアルナンバー46000の初め頃から'''ライカI(A)'''や'''ライカI(B)'''と並行して生産されている。[[1931年]]シリアルナンバー60500以降フランジバックが28.8mmに統一され、カメラ毎にレンズを調整する必要がなくなった<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>。フランジバックが統一されているモデルはマウント部12時位置に「0」マークが入っていることで区別できる。[[1931年]]シリアルナンバー71199を最後に製造が中止された<ref>『クラシックカメラ専科』p.70。</ref>。仕上げは全てニッケルメッキ<ref>『世界の珍品カメラ』p.141。</ref>。
**'''ライカI(A)新エルマー付き''' - [[ゲルツ]]が1926年に[[ツァイス・イコン]]になってガラスの供給が止まると1928年には[[ショット (ガラス製造業)|ショット]]から供給されたガラスで'''エルマー'''50mmF3.5が設計され<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.019。</ref>、シリアルナンバー13,500辺りから切り替えられた。ゲルツから供給されたガラス材で製造されたエルマーを「旧エルマー」、ショットから供給されたガラス材で製造されたエルマーを「新エルマー」と俗称する。一部のエルマーには0.45mまで近接可能なものがある。
[[ファイル:Leica-II-p1030003.jpg|thumb|right|II]]
**'''ライカI(A)近接エルマー付き''' - 1927年から1931年にかけ、イギリスのライカ代理店だったOgilvy &Co.の注文で1.5ftまで接写できるタイプが何ロットか製造された。旧エルマー付きと新エルマー付きがある。
*'''ライカII'''(''Leica II'' 、''Leica D'' 、[[1932年]]2月発売<ref>『世界の珍品カメラ』p.142。</ref>。) - レンズのピントリングと距離計が連動する連動距離計を装備し、いわゆる「バルナックライカ」の典型的な姿になった最初のモデル。距離計は等倍で、間にファインダーを挟む構造は特許で保護されており、コンタックスI型はファインダーの一を変更させられ、ハンザキヤノンはポップアップ式ファインダーで対応し、[[レオタックスカメラ]]は基線長が短くなることを承知でファインダーを外側とさせられる等他社の追随を困難にした<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>。シリアルナンバーは71200から。新型として発売されて間もない頃、当時カメラ技術指導者として高名だった吉川速男が[[シュミット商会]]の[[井上鍾]]に「今回のライカはD型と呼ぶのですか」と聞き井上が「ライカではII型と呼んでいるようです」と回答したことを受け、後日吉川が雑誌に執筆する際'''ライカDII'''と表記したことからしばらくそのように表記された。この流れで'''ライカIII'''を'''ライカDIII'''、'''ライカIIIa'''を'''ライカDIIIa'''、'''ライカIIIb'''を'''ライカDIIIb'''と表記している文献があるが、戦後しばらくして日本でもドイツ表記されることが多くなっている<ref>『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.124。</ref>。[[1948年]]シリアルナンバー355650を最後に製造が中止された。現在のパトローネの原型であるマガジンが開発され、ライカ用パトローネ入りフィルムが各社から発売され始めた。
**'''ゴールデンライカ'''([[1929年]]発売) - ライカの成功を記念しクリスマスにシリアルナンバー34803から34818の16台がワニ皮ケースに入れられ発売された<ref>『クラシックカメラ専科』p.69。</ref>。シリアルナンバー28692から68834の間に合計95台が存在する<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.7。</ref>。金仕上げ、革張りである点以外一般の'''ライカI(A)'''との違いはない。
**'''デラックスライカ'''([[1930年]]発売) - シリアルナンバー36333から69009の間で1894台が製造された。<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.7。</ref>
**'''ライカI(A)ヘクトール付き''' - 1930年から1932年にかけ、後に交換レンズとしても供給された沈胴式3群6枚の'''ヘクトール'''(''{{lang|de|Hector}}'' )50mmF2.5を装着したモデルが販売された。シリアルナンバーは38622から71230の間で1330台<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>。
*'''ライカI(B)'''(''Leica I''、''Leica B'' 、[[1926年]]発売<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.019。</ref>) - フォーカルプレーンシャッターではなく[[デッケル]]製[[レンズシャッター]]コンパーを装備したため「コンパーライカ」と俗称される<ref>『世界の珍品カメラ』p.140。</ref>。巻き上げとシャッターチャージが同時にでき二重写しを防げる特徴を捨ててしまいまたシャッターが回転へリコイドに取り付けられていたためピント合わせでシャッター位置が変更されてしまい操作性が悪かった<ref>『世界の珍品カメラ』p.140。</ref>。'''ライカI(A)'''では無限遠から1mまでの間にヘリコイドは1回転するが、このカメラではピッチを変えることで1/4回転とし、少しでもシャッターレリーズの位置が変わらないようにとの努力はしている。当初ダイヤルセットコンパーで1928年リムセットコンパーに変更された<ref>『世界の珍品カメラ』p.140。</ref><ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.018。</ref>。公式にはダイヤルセットモデルが638台、リムセットモデルが969台<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.019。</ref>。シリアルナンバーは5701から51715までの中にあることになっているが、この番号外の製品も多い<ref>『クラシックカメラ専科』p.69。</ref>。企画された理由として「普及版<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.10。</ref>」「スローシャッターの要望に応えた<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.10。</ref>」等という俗説があるが、[[1979年]]までの人生の大半をエルンスト・ライツで勤務した'''エミール・G・ケラー'''(''Emil G. Keller'' )によれば'''ライカI(A)'''のシャッターに根本的欠陥があって寒冷地で動作しなくなった上に幕がべたついて交換が必要となり、その間客に渡す代替機が必要になったからである。このトラブルは[[ラーン川]]から氷を採取して寒冷テストを行ないシャッターベアリング径を拡大するとともにアメリカの[[グラフレックス]]から幕を輸入して解消し、このカメラも製造中止された<ref>『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.126。</ref>。企画された経緯と、1970年代末のエルンスト・ライツ崩壊の際に放出された資材の中にかなり多数のコンパー付きエルマーが入っていたことから、片山良平はライツでこのカメラを回収し破棄された可能性に言及している<ref>『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』p.126。</ref>。レンズシャッターを装備したライカはこの機種だけである。
**'''ライカI(B)近接エルマー付き''' - 1927年から1931年にかけ、イギリスのライカ代理店だったOgilvy &Co.の注文で1.5ftまで接写できるタイプが何ロットか製造された。旧エルマー付きと新エルマー付きがある<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.7。</ref>。
*'''ライカI(C)'''(''Leica I''、''Leica C'' 、[[1930年]]発売<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>) - 機械的にはいわゆる「ライカマウント」<ref group="注釈">外径38.9mm、内径37.9mm。</ref>を装備しによるレンズ交換可能とするなったが、当初はフランジバックが統一されておらず、ボディーの製造番号下3桁とレンズに刻印された3桁の数字が合致する場合しか使えなかった。50mmのファインダーのみ装備する。初期には135mmの回転式視野マスクを備える個体がある。シリアルナンバー46000の初め頃から'''ライカI(A)'''や'''ライカI(B)'''と並行して生産されている。[[1931年]]シリアルナ交換レズは当初'''エルマ60500以降フランジバックが28'''35mmF3.8mmに統一され5カメラ毎にレンズを調整する必要がなくなった<ref>『'''エルマー'''50mmF3.5、'''ヘラシックカメラNoトール'''50mmF2.15特集ライカ』p'''エルマー'''135mmF4.020。</ref>。フランジバック5統一用意されているモデ、後に'''エウンー'''90mmF4、'''ヘク部12時位置に「0」マクが入っていることで区別できる。[[1931年]]シリアナンバー71199を最後に製造'''73mmF1.9中止追加された<ref>『クラシックカメラ専科』pNo.70。</ref>。仕上げは全てニッケ24、バキ<ref>『世界の珍品ク型ライメラ図鑑』p.14112。</ref>。
**'''ライカI(C)Oマーク付き'''([[1931年]]発売) - シリアルナンバー60500以降フランジバックが28.8mmに統一され、いわゆる「ライカマウント」となってカメラごとにレンズを調整する必要がなくなった<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>。フランジバックが統一されているモデルはマウント部12時位置に「0」マークが入っていることで区別できる<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.12。</ref>。[[1933年]]シリアルナンバー99755を最後に製造が中止された<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.12。</ref>。仕上げは全てニッケルメッキ<ref>『世界の珍品カメラ』p.141。</ref>。
[[ファイル:Leica-II-p1030003.jpg|thumb|right|ライカII]]
*'''ライカII'''(''Leica II'' 、''Leica D'' 、[[1932年]]2月発売<ref>『世界の珍品カメラ』p.142。</ref>。) - 春[[ライプツィヒ]]の見本市で発表された<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.16。</ref>。レンズのピントリングと距離計が連動する連動距離計を装備し、いわゆる「バルナックライカ」の典型的な姿になった最初のモデル。距離計は等倍で、間にファインダーを挟む構造は特許で保護されており、コンタックスI型はファインダーの位置を変更させられ、ハンザキヤノンはポップアップ式ファインダーで対応し、[[レオタックスカメラ]]は基線長が短くなる上にパララックスが大きくなることを承知でファインダーを外側とさせられる等他社の追随を困難にした<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>。シリアルナンバーは71200から。新型として発売されて間もない頃、当時カメラ技術指導者として高名だった吉川速男が[[シュミット商会]]の[[井上鍾]]に「今回のライカはD型と呼ぶのですか」と聞き井上が「ライカではII型と呼んでいるようです」と回答したことを受け、後日吉川が雑誌に執筆する際'''ライカDII'''と表記したことからしばらくそのように表記された。この流れで'''ライカIII'''を'''ライカDIII'''、'''ライカIIIa'''を'''ライカDIIIa'''、'''ライカIIIb'''を'''ライカDIIIb'''と表記している文献があるが、戦後しばらくして日本でもドイツ表記されることが多くなっている<ref>『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』p.124。</ref>。[[1948年]]シリアルナンバー355650を最後に製造が中止された。現在のパトローネの原型であるマガジンが開発され、ライカ用パトローネ入りフィルムが各社から発売され始めた。
*'''ライカスタンダード'''(''Leica Standard''、''Leica E'' 、[[1932年]]発売) - '''ライカII'''から距離計が省略され50mm用のファインダーのみ装備する。'''ライカI(C)'''とほとんど同じで、巻き戻しノブが細くなったことで識別する<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>。1950年まで製造された。短基線長の横型距離計が併売された。仕上げは全てニッケルメッキ<ref>『世界の珍品カメラ』p.141。</ref>だが1933年からクロームメッキが併売されている<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.020。</ref>。
*'''ライカIII'''(''Leica III''、''Leica F'' 、[[1933年]]発売) - '''ライカII'''にスローシャッター、視度調整装置、ストラップを装着する金具が装着された('''ライカII'''の極一部にも装着)。距離計の倍率が1.5倍になり測距精度が向上した。シリアルナンバーは107601から360000まで。ライカIIと同様の理由でしばらく日本名は'''ライカDIII'''だった。
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*'''ライカIIIa'''(''Leica IIIa''、''Leica G'' 、[[1935年]]発売) - 1932年に発売されたコンタックスI型に対抗して1/500秒だった最高速が1/1000秒になった。シャッターブレーキが装着されシャッター幕のバウンドがなくなった。スローシャッターにクリックストップがついた。シリアルナンバーは156201から357200まで。1939年11月当時の価格はエルマー付き820円、ズマール付き1200円で、これは当時東京で土地付き一軒家が充分に購入できる価格であり「ライカ1台が土地付きの一軒家に相当する」と言われた<ref>『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.81。</ref>。ほとんどがクローム仕上げでブラック仕上げは約800台と稀少<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.021。</ref>。
**'''ライカIIIaブラック''' - 黒塗り仕上げで珍品。[[大竹省二]]が所有している<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.083。</ref>。
**'''ライカIIIaモンテザール'''(''Leica IIIa MontesarMonte en sarre'' ) - フランスのカメラ輸入関税が高率であったことから、フラスのライカ代理店S.Tirantyの要請により1949年から1951年にかけて関税の掛からない部品でフランスへ輸出し[[ザール]]地方の小都市St. Ingbertにあったサロプチコ(''Saroptico'' )という小さい光学器械工場で生産約500台を組み立てた。サロプチコにはライツ本社からヴァルター・クルック(''Walter Kluck'' )が監督官として派遣されていものでモンテザール(''Monte en sarre'' )刻印がある。り、「モンテザールライカ」と呼ばれ珍品とされる。
**'''ライカIIIaドイツ海軍用''' - ドイツ帝国のシンボルである鷲とナチスの鉤十字が刻印されている<ref>『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』p.144。</ref>。海軍用ライカはドイツ海軍の損耗率が高かったため軍用ライカの中でも数が極めて少なく、価値が高いとされている<ref>『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』p.145。</ref>。
*'''ライカIIIb'''(''Leica IIIb'' 、[[1938年]]発売<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.021。</ref>) - 20mm離れていた距離計の窓とファインダーの窓が隣り合わせになり僅かに目を動かすだけで両方を見られるようになった。ファインダー部分はダイキャストとなり、このため距離計対物窓が1mm大きくなり、カメラの全高も1mmあまり高くなった。アクセサリーシューも頑丈な構造になっている。距離計視度調整レバーが巻き戻しノブ基部に移された。シリアルナンバーは240001から355000まで<ref>『クラシックカメラ専科』p.71。</ref>。
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以前ライカ製のレンズの名称は例えばテッサータイプのレンズはエルマー、プラナー型のレンズはズマロンのようにレンズ構成によって決められていた。しかしその後ほぼF値によって決められるようになっている。例えばF1から1.2はノクチルックス、F1.4はズミルックス、F2はズミクロン、F1.5はズマリット、F2.8はエルマリート、それより暗いレンズはエルマーである。
 
== ライカのシリアルナンバー ==
== 贈呈品 ==
[[1923年]]に製作されたサンプルの'''ライカ0'''のNo.100からNo.129、1925年に発売されNo.130から番号をつけられた'''ライカI'''を含めて現在までライカのカメラには通し番号がつけられている。また「何型のNo.何は何年にどこ向けで出荷された」という履歴が社内で記録されていた。この履歴は長らく社外秘であったが1961年からリークされるようになり、1973年には「型と番号の製造年度表」(''Angabe des Modells und des Baujahres'' )として正式にエルンスト・ライツから入手できるようになった。しかしこれは番号割当の表であって実際にこの通りに生産されたわけではなく、当初このリストに合わない個体があることに気がついたファンの間にかなりの混乱を招いた。
 
[[1978年]]には'''ライカI(A)'''から'''ライカIIIg'''までのライカ各型の製造台帳とも言える「ライカ・ヒストリカ第1巻」(''Leica Historica Band I'' )が入手できるようになり、「型と番号の製造年度表」と比較すればかなり正確な情報をかなり詳細に得られるようにはなったが、やはり欠番や重複が随所にある。また'''ライカI'''は'''ライカI(B)'''には「Compur」の付記があるが、'''ライカI(A)'''と'''ライカI(C)'''は全く区別されていない。
 
戦後になれば生産設備が整い1ロット辺りの製造数も多くなってかなり秩序だった生産がされているが、1台ずつ熟練工が組み立てていた戦前ではシリアルナンバー通りの順で生産されたわけでもない<ref>『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』p.5。</ref>。
 
=== 贈呈品 ===
エルンスト・ライツは古くから特別な製造番号の顕微鏡を商品とせず、著名な科学者等に贈っていた。これはライカカメラ発売後も続いた。贈呈されたライカカメラは以下が知られている。
*280 - ライカI(A)、1925年。フェルディナント・フォン・ツェッペリン。
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*350000 - ライカIIIb、1940年。アグファカラーの発明者ウィルヘルム・シュナイダー(''Wilhelm Schneider'' )。
*375000 - ライカIIIc、1941年。[[エルヴィン・ロンメル]]。
*400000 - ライカIIIc、1945年。ウィルヘルム・シュナイダー、No.350000が損耗したため<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*450000 - ドイツユースホステル創業者、[[リヒャルト・シルマン]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*500000 - ライカIIIc、1950年。エルンスト・ライツ2世<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*555555 - 金メッキされたライカIIIf、1951年。[[ダライ・ラマ14世]]<ref>『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』p.033。</ref>。
*600000 - ライカIIIf、1952年。海洋生物学者、ウィリアム・ベーベ(''William Beebe'' )<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*650000 - ライカIIIf、1953年。登山家、ギュンター・ディーレンフルト(''Gunter Dyhrenfurth'' )<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*666000 - ライカIIIf、1953年。登山家、[[エドモンド・ヒラリー]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*700000 - ライカM3、1955年6月。山岳写真家、スキーヤー、ステファン・クルッケンハウザー(''Stefan Kruckenhauser'' )<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*750000 - ライカM3、1955年。写真家、[[アンリ・カルティエ=ブレッソン]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*800000 - ライカM3、1955年。[[コンラート・アデナウアー]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*830000 - ライカM3、1953年。[[ジャワハルラール・ネルー]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*900000 - ライカM3、1957年。エドウィン・ウィッシャード<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*919000 - ライカM3、1958年。[[エリザベス2世 (イギリス女王)]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*980000 - ライカM3、1959年。[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*1000000 - ライカM3、1960年。エルンスト・ライツ3世<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*1000001 - ライカM3、1960年。写真家、[[アルフレッド・アイゼンスタット]]<ref>[http://www.ipm.jp/ipmj/classic/classic19.html Internet Photo Magazine Japan第5回ライカのラッキーナンバー(2)]</ref>
*1259999 - ライカフレックスSL、1970年。レオポルド・ゴドウスキー・ジュニア。
 
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*北野邦雄著『世界の珍品カメラ』朝日ソノラマ
*[[田中長徳]]著『銘機礼賛』日本カメラ ISBN4-8179-0004-0
*竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社ISBN978-4-7698-1455-9
*『フォトニュース』日本シイベルヘグナーライカバルナック事務局
*『クラシックカメラ専科』朝日ソノラマ
304 ⟶ 320行目:
*『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』朝日ソノラマ
*『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』朝日ソノラマ
*『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』朝日ソノラマ
*『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』朝日ソノラマ
*『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』朝日ソノラマ