「コル・ニドライ (ブルッフ)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
[[1880年]]、ブルッフが[[リヴァプール]]で職にある間に作曲が進められ、[[1881年]]に[[ベルリン]]で初演、同年に出版された。初演では、チェロパートへの技術的な助言も行った{{仮リンク|ロベルト・ハウスマン|de|Robert Hausmann}}が独奏を担当し、作品の献呈もハウスマンに行われた。初演は成功し、以降[[ヴァイオリン協奏曲第1番 (ブルッフ)|ヴァイオリン協奏曲第1番]]や[[スコットランド幻想曲]]に並ぶブルッフの代表作として[[チェリスト]]に愛奏されてきた。
 
作曲にあたってブルッフは、ユダヤ教の音楽から二つの旋律を借用している。一つは[[ユダヤ教]]の[[祭日]]である[[ヨム・キプル]]で歌われる典礼歌の旋律、もう一つは[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]の詩に基づきアイザック・ネイサン(Isaac Nathan)が作曲した[[ラメント|哀歌]]「ああ、彼等のために泣け」("''O weep for those''")である。ブルッフは[[ユダヤ音楽]]を作曲する気はなく、様々な[[民族音楽]]に興味を持っていたブルッフがあくまでその一環としてユダヤからのインスピレーションを作品に取り入れただけである。素材の扱い方も厳密なものではなく、[[ロマン派音楽]]の語法の中に組み込まれている。
 
ブルッフは[[プロテスタント]]であり、ここで使われる旋律を最初に知ったのは、彼の師である[[フェルディナント・ヒラー]]がブルッフをベルリンの[[ハッザーン|カントール]]であるアブラハム・ヤコブ・リヒテンシュタイン(Abraham Jacob Lichtenstein)に紹介した際であった。リヒテンシュタインは、多くの[[キリスト教]]の音楽家との強固な関係があることで知られており、ブルッフのユダヤ音楽に対する関心を支援した。