削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 17 件をウィキデータ上の d:q7237 に転記
編集の要約なし
26行目:
3歳で[[元帝 (漢)|元帝]]の第2子であった父・[[劉康 (前漢)|劉康]]が薨去し定陶王を継承した。祖母の傅氏(元帝の昭儀)と生母の丁氏が伯父・[[成帝 (漢)|成帝]]の皇后である[[趙飛燕]]に賄賂を贈り、18歳の時に[[皇太子]]となった。[[紀元前7年|前7年]]、成帝が崩御すると皇太后趙飛燕の後楯で19歳で即位した。
 
史書によれば哀帝は[[少年同性愛|男色]]を好み、特に寵愛した[[董賢]]に惜しみなく財宝や称号を与え、[[紀元前2年]]([[元寿 (漢)|元寿]]元年)12月には[[大司馬]]に昇進させた。更に、董賢の妻や妹にまで特権を与えたのみならず、[[王コウ|王閎]]に反対されて取りやめたものの董賢に[[禅譲]]しようとまでも考えていた。
 
亡父には「恭皇」を追諡、また養母に当たる皇太后趙氏、養祖母太皇太后王氏([[王政君]])とは別に、実母の丁氏に帝太后、実祖母の傅氏には皇太太后を追諡している。
33行目:
 
哀帝は即位後に王莽を罷免、[[丞相]]である[[朱博]]、[[王嘉]]を自殺させるなど臣下に対し厳しい態度で臨み、武帝・宣帝の手法を採用しようとしたが、前1年([[元寿 (漢)|元寿]]2年)6月、25歳で死去。[[嗣子]]が無かったために、崩御に際し皇帝璽綬を董賢に託したが、璽綬は太皇太后王氏、[[王莽]]らにより奪われ、政治の実権は王氏が再び掌握することとなった。なお璽綬を奪われた董賢とその妻はその日のうちに自殺した。
 
男色を意味する「断袖」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。
 
[[漢書]]哀帝紀の賛によれば、哀帝は下半身に障害があったようである。
 
==断袖==
男色を意味する「[[断袖]]」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。
 
== 家族 ==