「ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ」の版間の差分
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=== リッサ沖海戦 ===
1864年の第二次[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]の際は、5月9日の[[ヘルゴラント海戦]]で[[デンマーク海軍]]相手に戦った。この戦功により37歳で少将に昇進し、時代に合わせたオーストリア艦隊の根本的改革を任されることになった。1866年の[[普墺戦争]]に伴う第三次イタリア独立戦争では、海軍の新時代を身をもって示すことになる。同年7月20日の[[リッサ海戦]]で、数的に勝るイタリア艦隊を相手に[[衝角]]戦法を使用して大勝利を収めたが、同時に新たな[[装甲艦]]の優越性を示すことにもなった。オーストリアは戦争に敗れたが、彼はこの功によりマリア・テレジア勲章を受章し中将に昇進した。
===晩年 ===
同年、新しい海軍研究のため[[イギリス]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国]]に赴く。1868年には軍事省海軍部長に就任。[[参謀本部]]の抵抗もものともせず、短期間のうちに海軍の組織改革を成し遂げた。
「私にとって真の報酬とは、急速な昇進でも数々の勲章でもなく、陛下が亡き弟君のご遺体をメキシコから祖国へ待ちかえるよう命令を与えてくださったことです」
▲同年、新しい海軍研究のため[[イギリス]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国]]に赴く。1868年には軍事省海軍部長に就任。[[参謀本部]]の抵抗もものともせず、短期間のうちに海軍の組織改革を成し遂げた。その遺産は1918年のオーストリア帝国消滅まで維持されることになる。しかし1871年に[[肺炎]]のため43歳の若さで[[トリエステ]]で急死した。墓は[[グラーツ]]にある。
と述べている。その遺産は1918年のオーストリア帝国消滅まで維持されることになる。しかし1871年に[[肺炎]]のため43歳の若さで[[トリエステ]]で急死した。墓は[[グラーツ]]にある。
== 顕彰 ==
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