「ステファニー・ド・ベルジック」の版間の差分

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1889年、夫のルドルフ皇太子が[[マイヤーリンク]]で17歳の[[マリー・ヴェッツェラ]]男爵令嬢と一緒に死んでいるのが発見され、しかも二人の死は[[心中|情死]]であると考えられた。ステファニーは皇后となる望みを断たれた上、夫のスキャンダラスな死に方のせいで[[ウィーン]]宮廷からも遠ざかることを余儀なくされた。ステファニーと父レオポルド2世との親子関係も険悪で、彼女は相続財産をめぐり父と法廷で争わねばならなかった。
 
1900年3月22日、ステファニーは[[トリエステ]]の[[ミラマーレ城]]において、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]貴族のローニャイ・エレメール伯爵([[:de:Elemér Lónyay|Elemér Lónyay]])と身分違いの再婚をした。レオポルド2世は娘の再婚を責めたが、オーストリア皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は1917年にローニャイ伯爵を侯爵([[フュルスト]])に陞爵させている。ステファニーは[[1906年]]、ローニャイ伯爵の居城オロスヴァール城(モション県ルソウツェ村、現[[スロバキア]]・[[ブラチスラヴァ|ブラチスラヴァ市]]5区ルソウツェ街区)で後半生を送った。ステファニーは前夫ルドルフから性病をうつされたため不妊となっており、ローニャイとの間に子をもうけることはできなかったが、夫妻は幸福に暮らした。
 
1945年に[[赤軍]]が迫ると、夫妻は[[パンノンハルマの大修道院]]に避難し、ステファニーは同年8月23日に同修道院で亡くなった。