「エリア・カザン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
MIC*ANGEL (会話 | 投稿記録)
51行目:
1949年、[[アーサー・ミラー]]の戯曲『セールスマンの死』を演出。ニューヨークのモロスコ劇場で上演(初演)されたこの作品は、ピューリッツァー賞、ニューヨーク劇評家サークル賞、[[トニー賞]]などを受賞した。1951年、カザンは映画版の『欲望という名の電車』を監督した。主演は[[ヴィヴィアン・リー]]とマーロン・ブランド。同作品は大ヒットし、[[アカデミー賞]]の4部門で受賞した。
 
当時米国は、旧ソビエト連邦との[[冷戦]]の時代を迎えていた。芸術家や文化人が公然と糾弾され、時にその職が奪われるような事態がまかり通っていた。共産主義者の疑いのある者を糾弾する「[[赤狩り]]」の先鋒、下院[[下院非米活動委員会]]によって、数多くの芸術家が非難の対象となり、創作活動の中断を余儀なくされた。米国の演劇界やハリウッドの映画界もその嵐に巻き込まれていた。
 
1952年、アメリカ下院非米活動委員会によって、元共産党員であるエリア・カザンも共産主義者の嫌疑がかけられた。カザンはこれを否定するために[[司法取引]]し、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に表した。そのなかには劇作家・脚本家の[[リリアン・ヘルマン]]、小説家の[[ダシール・ハメット]]などの名もあった。以降もカザンは、演劇界・映画界において精力的に活動を続けることができ、名作と呼ばれる作品の誕生に数多く関わっていくが、この告発行為は、後のカザンの経歴およびその作風に暗い影を落とすこととなった。