「沖田芳次郎」の版間の差分

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嘉永6年(1853年)、[[北多摩郡]]大沢村の近藤家に生まれる。
 
[[安政]]7年(1860([[1860]])、父・林太郎が[[白河藩]]を脱藩し、沖田一家は[[江戸]]四谷伝馬町一丁目に住居した。[[文久]]3年(1863([[1863]])、林太郎が浪士組に参加し、江戸帰還後は新徴組隊士となって[[飯田町]]の黐木坂にある江戸田沼玄審頭屋敷に暮らす。
 
14歳になった[[慶応]]2年(1866([[1866]])、林太郎の組頭であった三村伊賀右衛門の切腹の介錯し、見事な腕前を見せたエピソードが子母沢寛の作品によって伝えられているが、三村の死亡は前年の9月で、一年の相違があり、芳次郎が13歳のときであったことは考えられる。ただし、沖田家菩提寺の先称寺に、三宅捨五郎という元新徴組隊士の墓碑があり、この人物が慶応2年に死亡したことにより、沖田家の過去帳に記載されている。介錯が14歳の時であったとすれば、三村ではなく、三宅のことであった説がある。芳次郎が新徴組隊士になった時期は不明で、慶応4年(1868([[1868]])2月には、[[庄内藩]]隊士の帰国に新徴組も従い、沖田家は3月に宿舎とされた[[湯田川温泉]]に到着。[[戊辰戦争]]を迎えることになるが、庄内藩の『出張姓名簿』によると、芳次郎は庄内藩士・菅野正助を頭取する三番隊の兵士に配属されている。名簿には『沖田芳之助』の名前を確認することができる。
 
戊辰戦争では、7月末からの矢島の攻略戦、9月中旬の関川の戦いに出陣したが、芳次郎の具体的な戦功や負傷などは伝えられていない。9月に庄内藩の降伏を知った三番隊は、鍋倉から湯田川温泉の宿に引き揚げている。
 
戦後、新徴組は大宝寺村に住居して後田山の開墾に従事することとなったが、明治5年(1872([[1872]])7月に数十名による集団脱走が決行され、林太郎一家もこれに加わっていたが、芳次郎は同行を否定。8月調査の『新徴組開墾士氏名』に名前がある。芳次郎が庄内から東京に帰還したのは明治14年以前だったと思われる。
 
明治19年(1886([[1886]])、東京で[[警察官]]となった芳次郎は、同19年に新選組隊士で縁戚関係にあった[[井上泰助]]の妹・ハナと結婚、同21年には、母・みつと弟の卓吉を連れて[[宮城県]][[塩竈市]]に赴き、[[魚介類]]の売買や製塩業を手掛けた。この間に長男・重治が生まれる。明治27年に次男・要が生まれる。
 
明治28年(1895年)、事業が失敗し失意のまま43歳で死去。その後、塩竈市旭町の東園寺に葬られ、井上泰助が[[墓碑]]を建立したという。墓碑は[[昭和]]41年に子孫によって[[東京都]][[港区]]元麻布三丁目の専称寺に移され、同時の過去帳には東園寺で授けられた徳輔宗賢謙譲居士の戒名が記されている。
 
== 参考文献 ==