「良渚文化」の版間の差分

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[[1936年]]、[[浙江省]]の[[杭州市]]良渚で発掘された。[[スウ沢文化|崧沢文化]]などを継承しており、[[黄河文明]]の山東[[竜山文化]]との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
 
== 提唱されている学説 ==
{{Main|夏 (三代)|ミャオ族}}
 
近年、[[長江文明]]研究の進展により、良渚文化は[[夏 (三代)|夏]]や[[殷]]王朝に比定されている。
 
また、[[黄帝]]の三苗征服伝説を、[[黄河]]流域の[[中原]]に依拠した父系集団の[[龍山文化]]による三苗([[ミャオ族]])征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある<ref>『図説 中国文明史1 文明への胎動』創元社、2006年</ref>。徐朝龍によれば<ref>『長江文明の発見』1998 角川書店。また[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0331.html 松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日]</ref>、[[良渚文化]]は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷[[后羿]](こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記[[匈奴]]参照)、のち[[四川盆地]]に移住し、[[三星堆遺跡|三星堆文化]]を築いたとする
 
徐朝龍によれば<ref>『長江文明の発見』1998 角川書店。また[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0331.html 松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日]</ref>、[[良渚文化]]は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷[[后羿]](こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記[[匈奴]]参照)、のち[[四川盆地]]に移住し、[[三星堆遺跡|三星堆文化]]を築いたとする。
 
 
 
{{Main|夏 (三代)|ミャオ族}}
 
==脚注==