「沖田芳次郎」の版間の差分

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'''沖田 芳次郎'''(おきた よしじろう [[嘉永]]6年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]([[1853年]][[3月5日]])- [[明治]]28年([[1895年]])[[1月26日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[新徴組]]隊士。[[沖田林太郎]]と[[沖田みつ|みつ]]の長男。甥に[[新選組]]一番組長[[沖田総司]]。[[]]は房政。
 
== 生涯 ==
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[[安政]]7年([[1860年]])、父・林太郎が[[白河藩]]を[[脱藩]]し、沖田一家は[[江戸]]四谷伝馬町一丁目に住居した。[[文久]]3年([[1863年]])、林太郎が[[浪士組]]に参加し、江戸帰還後は新徴組隊士となって[[飯田町]]の黐木坂にある江戸田沼玄審頭屋敷に暮らす。
 
14歳になった[[慶応]]2年([[1866年]])、林太郎の組頭であった三村伊賀右衛門の[[切腹]]の[[介錯]]し、見事な腕前を見せたエピソードが[[子母沢寛]]の作品によって伝えられているが、三村の死亡は前年の9月で、1年の相違があり、芳次郎が13歳のときであったことは考えられる。ただし、沖田家菩提寺の先称寺に、[[三宅捨五郎]]という元新徴組隊士の[[墓碑]]があり、この人物が慶応2年に死亡したことにより、沖田家の[[過去帳]]に記載されている。介錯が14歳の時であったとすれば、三村ではなく、三宅のことではないかとの説ある。芳次郎が新徴組隊士になった時期は不明で、慶応4年([[1868年]])2月には、[[庄内藩]]士の帰国に新徴組も従い、沖田家は3月に宿舎とされた[[湯田川温泉]]に到着。[[戊辰戦争]]を迎えることになるが、庄内藩の『出張姓名簿』によると、芳次郎は庄内藩士・[[菅野正助]]を頭取する三番隊の平士に配属されている。名簿には『沖田芳之助』の名前を確認することができる。
 
戊辰戦争では、7月末からの矢島の攻略戦、9月中旬の関川の戦いに出陣したが、芳次郎の具体的な戦功や負傷などは伝えられていない。9月に庄内藩の降伏を知った三番隊は、鍋倉から湯田川温泉の宿に引き揚げている。