「沖田芳次郎」の版間の差分

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戦後、新徴組は大宝寺村に住居して後田山の開墾に従事することとなったが、明治5年([[1872年]])7月に数十名による集団脱走が決行され、林太郎一家もこれに加わっていたが、芳次郎は同行を否定。8月調査の『新徴組開墾士氏名』に名前がある。芳次郎が[[庄内]]から[[東京]]に帰還したのは明治14年([[1881年]])以前だったと思われる。
 
明治19年([[1886年]])、東京で[[警察官]]となった芳次郎は、明治19年に新選組隊士で縁戚関係にあった[[井上泰助]]の妹・[[井上ハナ|ハナ]]と結婚、明治21年([[1888年]])には、母・みつと弟の卓吉を連れて[[宮城県]][[塩竈市]]に赴き、[[魚介類]]の売買や製塩業を手掛けた。この間に長男・重治が生まれる。明治24年([[1891年]])に長女・ヒサが生まれ、明治27年([[1894年]])に次男・要が生まれる。
 
明治28年(1895年)、事業が失敗し失意のまま43歳で死去。その後、塩竈市旭町の[[東園寺(宮城県塩竈市)|東園寺]]に葬られ、井上泰助が墓碑を建立したという。墓碑は[[昭和]]41年([[1966年]])に子孫によって[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]元麻布三丁目の[[専称寺 (東京都港区)|専称寺]]に移され、同時の過去帳には東園寺で授けられた徳輔宗賢謙譲居士の[[戒名]]が記されている。