「レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家」の版間の差分

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19世紀初頭までに、両系統は「名字の地」であるローヒェフォルト(現在の[[ベルギー]]領[[ナミュール州]][[ロシュフォール (ベルギー)|ロシュフォール]])と[[フィルネブルク]]([[ラインラント=プファルツ州]]マイエン=コブレンツ郡)を失った。後に、カトリック系は[[ローゼンベルク (バーデン)|ローゼンベルク]]を本拠としてレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク家と、ルター派系は[[フロイデンベルク (バーデン)|フロイデンベルク]]を本拠としてレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=フロイデンベルク家を称した。
 
[[フランス革命]]前夜、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家の領土は[[マイン川]]流域、[[オーデンヴァルト]]、[[ボヘミア]]、[[プファルツ選帝侯領]]、[[アイフェル地方([[:en:Eifel|Eifel]]地方、[[オーストリア領ネーデルラント]]、[[アルザス]]に拡散していた。これらの領地は極めて狭小な所領の寄せ集めであり、また領地は2系統のそれぞれが領主としての権利を共有する形をとり続けている部分も多かった。
 
1803年の[[帝国代表者会議主要決議]]により、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家はライン川左岸地域の領土を失い、代わりにマイン川下流域に補償領土をあてがわれた。この領地替えにより、同家の領土はより一体性のあるものになったが、独立領邦としての成長は叶わなくなった。1806年、同家の領土は[[ライン同盟]]によって[[陪臣化|陪臣化(Mediatisierung)]]されのである。家領は6つの大領邦、[[バーデン大公国]]、[[ヴュルテンベルク王国]]、[[バイエルン王国]]、ヴュルツブルク大公国([[:en:Grand Duchy of Würzburg|Großherzogtum Würzburg]])、フランクフルト大公国]]([[:en:Grand Duchy of Frankfurt|Großherzogtum Frankfurt]])、[[ヘッセン大公国]]の主権下に置かれた。1815年の[[ウィーン会議]]による最終的な領土再編の結果、ヴュルツブルクとフランクフルトは消滅し、残り4国家がレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家領の主権者となった。ただし、ローゼンベルク系は18世紀よりボヘミアに莫大な所領を有しており、この領土は4国家ではなく[[オーストリア帝国]]の主権下にあった。
 
レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム家は[[シュタンデスヘル]]身分となったが、1918年の[[ドイツ革命]]に伴う共和制の出現でその身分も失った。同家の2系統は現在も続いており、ローゼンベルク系は1720年より所有する[[クラインホイバッハ]]の城に、フロイデンベルク系は[[クロイツヴェルトハイム]]([[バイエルン州]]マイン=シュペサルト郡)の城にそれぞれ居住している。