「ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウン」の版間の差分

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[[1705年]]から[[1706年]]にかけて、オイゲンと主力不在のあいだのイタリアの戦いはフランスにかなり押され気味で、たまにオイゲンが戻ってきても劣勢の挽回にはならなかった。さらにはサヴォイア公国領のかなりの範囲を占領され、[[トリノ]]は孤立してフランス軍に包囲された。ダウンは歩兵をまとめてトリノに籠城する一方、ヴィットーリオ・アメデーオ2世は騎兵を率いてトリノを脱出、フランス軍を包囲陣の外側から攻撃しながらオイゲンの救援を待った。冬の間に同盟諸国から新手の部隊と軍資金を獲得してきたオイゲンは軍を再構成するとフランス軍の妨害を突破してトリノに駆けつけ、トリノを救出した([[トリノの戦い]])。この戦いでイタリア半島のフランス軍勢力は消滅した。
 
トリノを守り切ったダウンは高く評価され、[[ナポリ王国]]の占領を命じられた。さらには、当時フランス方に肩入れしていた[[教皇|ローマ教皇]][[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]に圧力をかけるため[[教皇領]]に進軍した。結局クレメンス11世は[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の弟[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール]]を[[スペイン]]王と認めた。この功績によってダウンは[[金羊毛騎士団]]に加えられた。
 
1707年にオーストリア、サヴォイア軍はフランス南部の[[トゥーロン]]まで攻め込むが撤退し([[トゥーロン包囲戦 (1707年)|トゥーロン包囲戦]])、戦争の重点がフランドルに移ったため以後オイゲンがやって来ることもなくなった。ダウン指揮のイタリア方面での戦いは一進一退が続き、そのまま終戦を迎えた。引き続く[[四カ国同盟戦争]]でダウンはオーストリア軍を指揮したが、[[ミラッツォの戦い]]でスペインに敗れた。しかし戦争はオーストリアの勝利に終わり、領土を失うことはなかった。
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