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幕政においては、弘化2年(1845年)から[[海岸防禦御用掛]](海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、[[薩摩藩]]の[[島津斉彬]]や[[水戸藩]]の[[徳川斉昭]]など諸大名から幅広く意見を求め、[[筒井政憲]]、[[戸田氏栄]]、[[松平近直]]、[[川路聖謨]]、[[井上清直]]、[[水野忠徳]]、[[江川英龍]]、[[ジョン万次郎]]、[[岩瀬忠震]]など大胆な人材登用を行った。
 
さらに人材育成のため、嘉永6年([[1853年]])には自らが治める[[備後福山藩]]の藩校「[[弘道館 (備後福山藩)|弘道館]]」(当時は新学館)を「[[誠之館]]」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石(天領であった隣接の[[安那郡]]山野村と矢川村と[[神石郡]]上豊松ほか14 か村 ※古川村を除く)はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。
 
[[弘化]]3年([[1846年]])、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令官[[ジェームズ・ビドル]]が[[相模国]][[浦賀]]([[神奈川県]])へ来航して通商を求めたが、正弘は[[鎖国]]を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年([[1853年]])には[[マシュー・ペリー]]率いる東インド艦隊がアメリカ大統領[[ミラード・フィルモア|フィルモア]]の親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には[[長崎港|長崎]]に[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]率いる艦隊も来航して通商を求めた。