「統葉護可汗」の版間の差分

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[[武徳]]2年([[619年]])2月、聊城で[[竇建徳]]が[[宇文化及]]を攻めて、これを斬り、その首は[[突厥]]の[[義成公主]]のもとへ送られた。7月、統葉護可汗と[[高昌]]はともに[[唐]]に遣使を送って朝貢した。
 
[[アルメニア]]の歴史家{{仮リンク|セベオス|en|Sebeos}}の伝えるところによれば、[[サーサーン朝]]が[[東ローマ帝国]]と戦争になると[[619年]]に30年ぶりに[[西突厥]]が[[大ホラサーン]]([[:en:Greater Khorasan|en]])の[[トゥース]]に攻めこみ{{仮リンク|第二次ペルソ・テュルク戦争|en|Second Perso-Turkic War}}がおこった。初戦で撃退された西突厥軍は援軍を要請し、可汗は30万の援軍を送った。Datoyan王子の守るトゥース要塞を落し、[[エスファハーン]]まで進軍して撤退を開始した。{{仮リンク|バグラトゥニー朝|en|Bagratuni Dynasty}}のSmbatは、東ペルシアで兵を集め、撤退途中の西突厥軍の指揮官を殺した。その結果、西突厥軍の統制が失われ、バグラトゥニー軍からさらに大損害を被った。
 
武徳3年([[620年]])3月、ふたたび統葉護可汗と高昌王の[[麴伯雅]]は唐に遣使を送って朝貢し、突厥は[[条支国|條支]]の巨鳥(巨卵)・[[獅子]]の革を貢納した。