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武徳9年([[626年]])、統葉護可汗は唐に遣使を送って請婚した。[[李淵|高祖]]はこれを許可し、高平王の[[李道立]]を西突厥に派遣して返事を伝えた。すると統葉護可汗は大喜びし、翌年の[[貞観 (唐)|貞観]]元年([[627年]])、また使者の真珠統俟斤を遣わして、万釘宝鈿金帯・馬五千匹を献上した。しかし、東突厥が毎年唐の辺境を侵すので、唐~西突厥間の道が遮断され、結婚は果たされなかった。
 
[[アルメニア]]の歴史家{{仮リンク|モヴセス・カガンカトヴァツィ|en|Movses Kaghankatvatsi}}によれば、{{仮リンク|ビザンチン・サーサーン戦争 (602年 - 628年)|en|Byzantine–Sassanid War of 602–628|label=ビザンチン・サーサーン戦争}}への介入戦争である{{仮リンク|第三次ペルソ・テュルク戦争|en|Third Perso-Turkic War}}([[627年]] - [[629年]])が[[南コーカサス]]の[[デルベント]]で起こった。裏で行なわれていた{{仮リンク|ニネヴェの戦い (627年)|en|Battle of Nineveh (627)}}が中東の軍事バランスを変えたことによって[[イスラーム教徒のペルシア征服]]([[633年]] - [[644年]])が成功した。この介入戦争が世界史に与えた影響は非常に大きなものである。
 
時に統葉護可汗は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に[[歌邏禄]](カルルク)種の多くがこれに離反した。そうした中、貞観2年([[628年]])、統葉護可汗は伯父(諸父)の[[莫賀咄可汗|莫賀咄]]に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。[[太宗 (唐)|太宗]]は統葉護可汗の死を聞き、甚だこれを追悼した。