「北越学館事件」の版間の差分

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この両者の紛争の調停を図るために、新島襄は[[横井時雄]]を新潟に派遣したが、効果はなかった。とりわけ、成瀬が激しく内村と対立して、自らも「意見書」をあらわし、内村の非を五項目にわたり列挙した。
 
その年の12月に北越学館を辞任して、[[東京府|東京]]へと去った。後任には後に、内村と共にキリスト教界の四村と呼ばれた[[松村介石]]が赴任した。この事件に関連して、[[棚橋一郎]]、[[志賀重昂]]らの[[国粋主義者]]が関係していた『[[日本人 (雑誌)|日本人]]』が内村鑑三の擁護論を掲載した。
 
== その後 ==