「ヴィルヘルム・カナリス」の版間の差分
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| 除隊後 = 反逆罪に問われ、絞首刑
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'''ヴィルヘルム・フランツ・カナリス'''('''Wilhelm Franz Canaris''', [[1887年]][[1月1日]] - [[1945年]][[4月9日]])は、[[ドイツ海軍]]の軍人。[[アプヴェーア]](国防軍情報部)の部長。最終階級は[[ドイツ海軍 (国防軍)|海軍]][[大将]]。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
1887年1月1日、[[ドイツ帝国]][[プロイセン王国]][[ヴェストファーレン州]]([[:de:Provinz Westfalen]])[[ドルトムント]]郊外の[[アプラーベック]]([[:de:Dortmund-Aplerbeck|Aplerbeck]])にカール・カナリス(Carl Canaris)とアウグスタ・カナリス(Augusta Canaris)(旧姓ポップPopp)夫妻の末っ子として生まれる。父カールは[[ルール地方]]で鋼鉄産業に携わる裕福な実業家だった。カナリスの先祖は
1892年に一家はドイツ西部の[[デュッセルドルフ]]、同じ年に[[デュイスブルク]]へと移住し、カナリスもここで育った。デュースブルクの[[ギムナジウム]]に通っていた[[1905年]]4月1日に家族の反対を押し切って士官候補生として帝国海軍に入隊
=== 第一次世界大戦 ===
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ナチス時代、カナリスとハイドリヒは親交と緊張の二面的な関係を維持した。カナリス家とハイドリヒ家はベルリン郊外のシュラハテンゼーに家を並べて隣人として家族ぐるみの付き合いをした。両者は外見上は共に家庭音楽会を開き、また、ベルリンのティアガルテンで乗馬を楽しむ等友好的な関係を結んでいたが、個人的には嫌悪と不信があった。カナリスの価値観、ナチ政権に対する反感、犯罪的手法・テロリズムの拒否感は、ドイツの二つのスパイ機関のトップのあいだの溝を深めていった。ハイドリヒとカナリスの交渉は常に[[ヴァルター・シェレンベルク]]が「緩衝材」として必要になるほど緊張していたという(シェレンベルクが回顧録に書いたところによるとシェレンベルクが二人の交渉の場からいつの間にか立ち去ると必ずハイドリヒかカナリスのどちらかが慌てて自分を捜しに来て連れ戻したという)。カナリスは日記に「ハイドリヒに心を開いて一緒に仕事をするのは、たぶん無理だろう。あいつは血も涙もない狂信者になってしまった…。」と書いている。それでも1942年のハイドリヒの葬儀ではカナリスは涙を見せている。
アプヴェーア長官としてカナリスが携わった工作には、[[IRA]]の対英テロやフランコ将軍のクーデター、[[アラブ]]の民族主義者による[[パレスチナ]]、[[イラク]]、[[エジプト]]における反英運動の支援などがある。また[[1936年]]には陸軍主流派に逆らい、日独軍事協力を推進し、駐独日本大使[[大島浩]]と共に[[日独防共協定]]を成立に導いた。1939年8月末の[[ポーランド侵攻]]の口実作りのための[[グライヴィッツ事件]]の工作にカナリスのアプヴェーアはうまく理由をつけて参加を拒否し
=== 処刑 ===
しかし、第二次世界大戦の開戦前よりカナリスにはヒトラーの戦争も辞さない外交政策に対して疑念が生じ始め、それは時と共に増大した。彼は部長として
[[1944年]]2月半ば、カナリスはアプヴェーア長官
== キャリア ==
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