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[[手塚治虫]]とはライバルであり、同時に対立関係にあったが、手塚が書いた作品は全て所有していた。手塚自身も自伝『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社)で「福井氏の筆勢を嫉んでいた」と書いている。
 
当時[[少年画報社]]の編集者であった[[福元一義]]によると、福井は鉛筆で下絵を描いてから[[つけペン#種類|丸ペン]]で丁寧に仕上げる「昔気質の律儀な漫画家」である上に、徹夜ができなかった。一方の手塚は鉛筆で人物などを丸や三角の絵で当たりをとったあと、[[つけペン|事務ペン]]一本のみを使用して直にペンを入れ<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ、草思社)</ref>、一睡もせずに猛烈な速度で原稿を仕上げていく対照的なタイプであった。福井は一度手塚と同室で執筆した際、普段はやらない徹夜ができたことを喜んだものの、ペースを乱されたためか「もう君とは二度と一緒に仕事しない」と手塚に話したという<ref>岩上安身「仕事部屋から見つめた超人・手塚治虫」『[[エスクァイア]]日本版』No.136、1989年[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/atom.htm]および福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書、2009年)P29 - 30。『手塚先生、締め切り過ぎてます!』によると、この同室での執筆は福井の提案で、福井の自宅でおこなわれたという。</ref>。
 
福井の手塚に対するライバル心も並々ならぬもので、『イガグリくん』の人気ぶりは手塚の牙城を揺るがす勢いだった。「児漫長屋」の漫画家たちも、関西出身の手塚に対するやっかみが強かった。一度「児漫長屋」の仲間たちで、池袋で飲み会を開いていたところ、酔いのまわった福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」とふっかけて口論となった。福井は手塚に「稼ぐばかりが能じゃねえ、ちっとは子供たちのことを考えろ、その態度がおれには腹が立ってならねえ、この贅六<ref>関西人を罵倒する軽蔑語。手塚をやっかみ、こう呼ぶ同業者は多かったという</ref>め!」と罵倒したという。
 
この福井の手塚に対するライバル心は、亡くなった年である昭和29年に、手塚が『漫画少年』2月号で『ジャングル大帝』と同時連載していた『漫画教室』の133ページの一コマをきっかけに、「イガグリくん事件」として、決定的な衝突を生むこととなった。手塚は持論として「ストーリー漫画家はページ数を稼ぐために無駄なコマや不必要な絵を描く」と批判し、福井の勢いに対する幾分の妬み心から、「悪い例」として「イガグリくん」の絵を描いたのである。これを見た福井は「手塚は俺の『イガグリくん』を悪書漫画の代表として天下にさらしこきおろした」と激怒。親友であり手塚とも縁の深かった[[馬場のぼる]]の家に押しかけて、彼を立会人に指名し、馬場と共に少年画報社の編集室に乗り込んで、打ち合わせ中の手塚の胸倉をつかんで、激しく謝罪を要求した。
 
馬場のとりなしで抗議の場を行きつけの居酒屋に変えても福井の怒りは収まらず、手塚に「俺の漫画のどこが無意味でどこがページ稼ぎなのか言ってみろ!」と迫った。対する手塚はしどろもどろで、「あれはイガグリというより架空の絵なんだ」との答えがさらに福井の怒りを買い、「ストーリー漫画にはムードが必要なんだ、たとえ雲ひとつでもストーリーが引き立つなら決して無駄じゃねえんだ、そんなこたあ俺よりてめえのほうが合点承知の助だろうが!」と正論で迫った。ここに至って手塚はついに叩頭して謝罪し、ようやく福井の怒りを解いたが、以後手塚は強烈な自己嫌悪に陥ったという。両者のライバル心がいかにすさまじかったかを示すエピソードである<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ著、草思社)</ref>。
 
手塚は翌月の『漫画教室』に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描き謝罪の意を表した。その1か月後に福井は[[過労死|過労で急逝]]しており、手塚は死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ああ、ホッとした」という感情を覚え、そのことでも自己嫌悪に陥ったと記している<ref>手塚 (1999)、171-176p</ref>。