「プロコーフィー・ジャパリーゼ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
KLBot2 (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 2 件をウィキデータ上の d:Q2444767 に転記
m 内部リンク追加
11行目:
|思想= [[ボリシェヴィキ|ボリシェヴィズム]]
|活動=
|組織= [[バクー・コムーナ]]
|藩=
|受賞=
35行目:
[[1905年]]に再び逮捕されて[[北カフカス]]に5年間追放され、[[ロストフ・ナ・ドヌ]]に住んだ。[[1906年]]に[[ストックホルム]]で開かれた社会民主労働党第6回党大会[[:ru:IV съезд РСДРП|ru]])では[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員会]]の候補に選出されている。[[1913年]]にチフリスに戻り、[[1915年]]にまたもメーデーのデモを組織し[[ヴォログダ県]]に追放された。だが翌年に[[サンクトペテルブルク]]経由でチフリスに脱出した。
 
[[1917年]]の[[二月革命]]後はボリシェヴィキによる[[バクー・コムーナ([[:ru:Бакинская коммуна|ru]])やカフカス地区委員会に加わり、同年12月からバクー・ソビエト執行委員会副委員長を、翌年1月から7月までは委員長を務めた。[[1918年]]3月にバクーで{{仮リンク|ムサヴァト党|en|Musavat}}{{refnest|group="注"|アゼルバイジャンの[[自由主義]]政党。}}による反ソビエト反乱が発生した際には、その鎮圧のための革命防衛委員会のメンバーとなった。同年4月からコムーナの内務人民委員を、6月から食料人民委員を務めたが、その後バクー・コムーナが崩壊すると[[社会革命党]]に捕らえられ、9月20日に処刑された。
 
== その他 ==