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[[鎌倉時代]]に[[結城氏]]の一族である[[関氏|藤姓関氏]]によって築かれた[[平城]]である。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に入ると、[[関宗祐]]・[[関宗政|宗政]]親子は[[南朝 (日本)|南朝]]方にあったが、[[暦応]]4年/[[興国]]2年([[1341年]])に[[小田治久]]の離反によって[[小田城]]を追われた[[北畠親房]]がこの城に逃げ込んだことから、近隣の[[大宝城]]とともに[[北朝 (日本)|北朝]]方の標的となる。戦いは2年にわたったが、[[康永]]2年/興国4年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]([[1343年]][[11月28日]])に北朝側からの総攻撃を受けて翌日陥落、関親子は討死し、北畠親房は辛うじて脱出した([[関城・大宝城の戦い]])。
 
この戦いの最中に北畠親房が[[搦目城|白河城]]の[[結城親朝]]に対して送ったとされる『[[関城書]]』は有名である。
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[[Category:南北朝時代 (日本)]]
[[Category:筑西市]]
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