「カール・ユーナス・ルーヴェ・アルムクヴィスト」の版間の差分

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[[1833年]]から[[1851年]]まで幾度に渡ってアルムクヴィストの代表作である全14巻からなる[[詩集]]『{{仮リンク|野ばらの書|sv|Törnrosens bok}}』を著す。
 
1851年[[6月]]に[[証書]]の[[変造]]や金利的問題でユーハン・ヤコブ・フォン・シェフェン(''Johan Jacob von Scheven'')と言う[[老人]][[大尉]]を[[ヒ素]]で[[毒#利用|毒殺]]しようとした[[容疑]]にかけられ{{sfn|万有百科大事典|1973|p=31}}、[[アメリカ]]に[[亡命]]{{sfn|世界大百科事典|1972|p=526}}。なお、アメリカでの生活はほとんど[[不明]]で[[翻訳家]]の[[田中三千夫]]は{{仮リンク|スウェーデン文学|en|Swedish literature}}史上で最も謎と述べている<ref name="yahoo1"></ref><ref group="注釈">アメリカでもスウェーデンと掛け合わせて[[重婚]]したとされる。</ref>。また、晩年のアルムクヴィストの生涯が謎であるためアルムクヴィストの生涯と作品を共有する{{仮リンク|アルムクヴィスト学会|sv|Almqvistsällskapet}}がある。
 
その後、各地を[[放浪]]して[[貧乏]]のまま[[ヨーロッパ]]に戻るが1866年9月26日、帰途の[[ドイツ連邦]](現:[[ドイツ]])[[ブレーメン]]で没した{{sfn|世界大百科事典|1972|p=526}}<ref name="yahoo1"></ref>。