「マクシム・ゴーリキー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
52行目:
[[ファシスト]]政権のイタリアからゴーリキーが戻ったのは、ソビエト政府にとっては格好の宣伝材料となった。彼は[[レーニン勲章]]を受け、[[モスクワ]]の邸宅(現在はゴーリキー博物館となっている)と郊外の別荘を贈られる。このとき、モスクワのトヴェルスカヤ通りがゴーリキー通りと改められ、生地の[[ニジニ・ノヴゴロド]]市もゴーリキー市と改称された([[1990年]]まで)。ゴーリキーは[[ソビエト作家同盟]]を設立し、その議長に就任する。
 
1934年、[[セルゲイ・キーロフ]]が死に、スターリンによる粛清が始まると、ゴーリキーは自宅に軟禁されるようになった。[[1935年]]、息子マクシム・ペシコフを亡くした翌年、[[1936年]]にモスクワで没する。両者とも[[毒#利用|毒殺]]された疑いがあるが、確実なことは分かっていない。
 
== 作品 ==