「海老原博幸」の版間の差分

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== カミソリ・パンチ ==
度重なる拳の骨折により世界王者として突出した記録は残せなかったが、同時期のライバルで後に親友となる[[ファイティング原田]](東日本新人王決勝で両者は対決し、原田の判定勝ち)は「海老原は天才だった」と述べており、名王者[[リカルド・ロペス]]も[[大橋秀行]]との対談で海老原の実力を高く評価している。当時数多くの強豪が犇いていたフライ級戦線で、原田にこそ敗れたが三羽烏のライバル[[青木勝利]]、東洋王座を10度防衛した[[中村剛 (ボクサー)|中村剛]](4戦して3勝1分)、後の世界王者[[チャチャイ・チオノイ]]、そして現役世界王者[[ポーン・キングピッチ]]等を相手に国内歴代3位となる29連勝を達成、連勝がストップした後も海外で後の世界王者[[アラクラン・トーレス]]に2勝(1KO)する等、フライ級では屈指の実力者であった。ポーンを破り世界王座を獲得した[[サルバトーレ・ブルニ]]({{ITA}})の陣営が頑なに海老原との対戦を拒んだというエピソードもある。天性のリズムと絶妙のタイミングから放たれる左[[ストレート]]は、'''カミソリ・パンチ'''と称され、その強打を駆使し国内歴代2位となる33KOを記録。師匠で数多くの世界王者を育てた金平も「最もパンチ(力)があったのは海老原だ」と語るほどである。また精神力も高く試合中に拳を骨折しながら試合終了まで耐える事も多く、後に海老原を含む多くの世界王者を育てた名トレーナー[[エディ・タウンゼント]]も「一番ガッツがあったのは海老原だった。海老原は本当の男だ」と語っている。努力型でラッシュを得意とするライバルの原田とは正反対のタイプであった。
 
上記の通りその強打からボクサーとしては致命傷と言える7度の拳の骨折を経験した。2度目のタイトルを獲得した[[ホセ・セベリノ]]戦では試合前に骨折した右拳に打ち込んだ麻酔が試合中に切れてしまった上、途中左拳も痛めたが、激痛をこらえてフルラウンド戦っており、最後の試合である[[バーナベ・ビラカンポ]]戦でも試合中に右拳の骨折と左肩の脱臼を生じた。