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日本にカードゲームが初めて上陸したのは[[安土桃山時代]]。[[宣教師]]が[[鉄砲]]や[[キリスト教]]、[[カステラ]]等と共に伝えたとされる。ちなみに日本の「[[かるた]](歌留多、骨牌)」の語源は、[[ポルトガル語]]でカードゲームを示す「{{lang|pt|carta}}」である。[[天正]]時代(1573~91)にはすでに国産のかるたが作られており、当時の札が一枚だけ現存する。江戸時代には、[[賭博]]という閉鎖性と当時の物品流通の実態から、日本全国に普及したカードゲームは、各地で様々なローカルルールを生み出し、そのローカルルールにふさわしいように札のデザインも変えていった。それらの札を「地方札」という。
 
かるたへの禁制は安永のころから厳しさを増し、とくに[[寛政の改革]]では売買が厳しく禁止された。花札は、この禁制からの抜け道として考案されたと考えられている。それまで12枚×4[[スート]]であったものを、花札では数字及びスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた[[和歌]]カルタをモチーフとした。しかし、花札もすぐに禁止された。現在残っている最古の禁令は1831年のものである<ref>{{harvnb|尾佐竹|1925|p=197}}</ref>。また浜松歌国(1833)『摂陽奇観』によると、それ以前の1816年にすでに花合(=花札)が禁止されており<ref>浜松歌国(1833)『摂陽奇観』巻46(文政二年)「当春花合停止、武蔵野ともいふ歌留多也」</ref>、それ以前に花札が考案されていたと考えられる。
 
[[明治]]初期には相変わらず花札は禁止されていたが、1886年に販売が解禁され、同年に銀座の上方屋から花札とルールブックが発売された<ref>竹窓山人(1885)『[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861681 花がるた使用法]』 上方屋. (国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。これ以降花札は大いに流行した。その一方で1902年に「[[トランプ類税|骨牌税]]」によってカルタ類が課税されるようになると、地方札を生産していた日本各地のかるた屋は倒産し、地方札は廃れていき、各地に伝わる遊び方も滅びていった。なお、[[任天堂]]は多くの地方札の原版を保有しており、発注も可能である(もちろん、相応の発注単位である必要がある)。同社サイトで、地方札原版がファイルに収められている様子が確認できる。