「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の版間の差分

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[[12世紀]]末より[[中央アジア]]、[[イラン]]で勢力を拡大していた[[ホラズム・シャー朝]]が西北のユルドゥズ、カバーチャを脅かすと、イルトゥトゥミシュはホラズム・シャー朝の北インドへの侵入を阻止するため<ref name="chan74"/>にシンドに兵を進める。ユルドゥズがホラズム・シャー朝にガズナを奪われてカバーチャの元に逃れると、[[1216年]]にイルトゥトゥミシュは{{仮リンク|タラーイン|en|Taraori}}で弱体化したユルドゥズを攻撃し、彼を捕殺した。しかし、ユルドゥズの死後はカバーチャからの圧力が増し、依然デリーは不安定な状態に置かれていた<ref name="rob112"/>。
 
1220年代にホラズム・シャー朝は[[モンゴル帝国]]の侵入([[チンギス・カンの西征]])によって壊滅状態に陥り([[:en:Mongol invasion of Khwarezmia and Eastern Iran]])、[[1222年]]にホラズム・シャー朝のスルタン・[[ジャラールッディーン・メングベルディー]]がデリーの宮廷に亡命を打診する事件が起きる<ref name="CMD5">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、5頁</ref>。ジャラールッディーンを保護することでデリーがモンゴル帝国の標的となる可能性<ref name="chan82">S.チャンドラ『中世インドの歴史』、82頁</ref>、ジャラールッディーンの軍事能力<ref name="CMD4">C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、4頁</ref>を警戒したイルトゥトゥミシュは、亡命を丁重に断った上でムルターンへの移動を勧めた<ref name="CMD4"/>。シンドに移動したジャラールッディーンがカバーチャの領土と軍に損害を与えると、イルトゥトゥミシュはカバーチャを助けるために軍を動かした<ref name="CMD5"/>。一度はジャラールッディーンとの直接対決を避け、彼と和約を結んで娘を与えたが、最終的にはカバーチャら北インドの諸勢力と同盟してジャラールッディーンらホラズム・シャー朝の軍をインドから放逐する<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、5-6頁</ref>。
 
[[1228年]]にでホラズム・シャー朝の侵入によって弱体化したカバーチャを[[インダス川|インダス河畔]]で破り、国境をインダス川沿岸部に伸張した<ref name="chan74"/>。同時期のモンゴル帝国はインドを攻撃の対象とはせずに[[イラク]]、[[キプチャク草原]]方面に軍を送っており、イルトゥトゥミシュはモンゴルの侵入に備えて北方の防備を整えた<ref name="chan82"/>。