「ホラズム・シャー朝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
95行目:
しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラ・キタイの政権を奪ったナイマン部の[[クチュルク]]を滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた<ref name="杉山_p407">杉山 (1997)、p.407</ref>。アラーウッディーンはモンゴル帝国の[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]と誼を通じていたが<ref>岩村 (2007)、pp.179-180</ref><ref>ドーソン (1968)、pp.174-176</ref>、[[1216年]]にスィル川河畔の[[オトラル]]で、ホラズム・シャー朝のオトラル総督[[イナルチュク|イナルジュク・ガイール]]が、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い<ref>ドーソン (1968)、pp.178-179</ref><ref>杉山 (1996)、p.50</ref>、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった<ref>岩村 (2007)、p.180</ref>。モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラーウッディーンはテルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した<ref>ドーソン (1968)、pp.180-181</ref>。
 
おそらくかねてから中央アジア侵攻の機会をうかがっていたモンゴル帝国のチンギス・ハーンは、この事件を機にホラズム・シャーへの復讐を決し、[[1219年]]にハーン自ら率いるモンゴル軍の大規模な侵攻を開始した([[チンギス・カンの西征]]、[[:en:Mongol invasion of Khwarezmia and Eastern Iran]])<ref name="杉山_p407"/>。アラーウッディーンはカンクリ族を含む、遊牧民諸部族の寄り合いだったため、モンゴルの侵攻に対しては内紛と反抗の危険性に脅かされていた<ref>杉山 (1997)、pp.407-408</ref>。これにより、モンゴルの侵攻に対して寝返りの危険がある野戦で迎撃する作戦を取ることができず、兵力を分散して[[サマルカンド]]、[[ブハラ]]など中央アジアの各都市での籠城戦を行なった<ref name="杉山_p408">杉山 (1997)、p.408</ref>。その結果、各都市は綿密に侵攻計画を準備してきたモンゴル側の各個撃破にあって次々に落城、破壊され、ホラズム・シャー朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事実上崩壊した<ref name="杉山_p408"/>。アラーウッディーン・ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先の[[カスピ海]]上の小島で死亡した<ref name="杉山_p408"/>。
 
=== ジャラールッディーンの抵抗と再興 ===