「寺西勇」の版間の差分

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大相撲の立浪部屋に入門し、[[1963年]]5月場所に本名の寺西の四股名で初土俵を踏んだ。しかし伸び悩み、わずか入門3年後の[[1966年]]5月場所限りで廃業した。大相撲廃業後は、[[1966年]]に同門の[[永源遙]]とともに[[豊登道春]]率いる[[東京プロレス]]に入ってプロレスラーに転向。同年[[10月21日]]、団体旗揚げ戦においてデビュー(相手は竹下民夫)。団体崩壊後は[[国際プロレス]]に移籍し、当時最高のテクニシャンであった[[エドワード・カーペンティア]]と当たる機会に恵まれ、自らのスタイルの基礎を築く。
 
[[1975年]][[3月13日]]、[[茨城県]][[境町]]体育館において[[ジェリー・モロー|稲妻二郎]]を破り、IWAミッドヘビー級(現在で言うジュニアヘビー級)王座を獲得し、3度防衛。防衛相手の中には、後のトップレスラー、[[リック・マーテル]]も含まれている。またその技術が評価され、[[1976年]]には[[プロレス大賞]]・技能賞を受賞している。しかし国際も[[1981年]]に崩壊し、[[ラッシャー木村]]・[[アニマル浜口]]とともに[[国際軍団]]を結成して[[新日本プロレス]]に殴りこみ。1983~4年頃は浜口とともに[[長州力]]の維新軍に参加し、[[小林邦昭]]と共にジュニアヘビー級戦線で活躍する。[[1983年]]8月、維新軍在籍時に[[佐山聡|初代タイガーマスク]]の新日マット最後の対戦相手となる(タイガーマスクの保持するNWA世界ジュニアヘビー王座への挑戦)。そのまま[[ジャパンプロレス]]にも合流する。[[1985年]][[7月]]、浜口と[[アジアタッグ王座]]を獲得。
 
[[1987年]]にジャパンが崩壊した後は[[谷津嘉章]]らと共に[[全日本プロレス]]の一員となったが、[[1992年]]怪我により一旦引退。全日のスタッフとして裏方の仕事(会場でのパンフレット販売等)に従事するが、1シリーズで公の場から姿を消す。[[1994年]]、ジャパン時代の同僚谷津嘉章の[[SPWF]]で現役復帰、その後新日本にも参戦した。現在はプロレス界を離れて解体関係の仕事をしている。因みに本人は「勇」という名前がいたく気に入っており、実子に勇と名付けている。