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陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「[[革新官僚]]」として、[[日中戦争]]前後の戦時統制計画の立案を担ったが、「[[統制経済]]」の牙城として、初期には、[[吉田茂 (内務官僚) |吉田茂]]、[[奥村喜和男]]、[[松井春生]]らが参画、その後は、初代総裁に[[後藤新平]]を頂いていた[[南満州鉄道]]傘下[[満鉄調査部]]を経由した官僚として、経済将校として鳴らした[[石原莞爾]]と組んだ[[宮崎正義]]、[[佐々木義武]]、[[満州国]]の経済体制造りに関わった者の中からは、[[岸信介]]([[商工省]])、[[椎名悦三郎]]([[商工省]])、[[美濃部洋次]]([[商工省]])、[[毛里英於菟]]([[大蔵省]])、[[星野直樹]]([[大蔵省]])らがいる。他に、[[迫水久常]]([[大蔵省]])、[[植村甲午郎]]([[逓信省]])、[[黒田鴻伍]]([[商工省]])、[[橋井真]]([[商工省]])、[[周東英雄]]([[農林省]])、[[竹本孫一]]([[内閣]])らが、民間からは企画院参与(勅任官)として[[高橋亀吉]]らがいた。更に[[東條英機]]、[[武藤章]]、[[鈴木貞一]]、[[板垣征四郎]]らの軍人の関わりも指摘されている。
 
[[1943年]]([[昭和]]18年)[[11月1日]]、[[軍需省]]へ一本化されたが、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[11月1日]]、企画院と同様の機構構成で[[綜合計画局]]が立ち上げられ長官には[[植場鉄三]]、[[秋永月三]]、関東軍参謀副長・[[池田純久]]、最後には[[迫水久常]]、元商工次官・[[村瀬直養]]らが就いた<ref>綜合計画局長官は、[[内閣書記官長]]、[[情報局]]総裁、[[法制局長官]]と並ぶ「内閣四長官」と称された</ref>。その後、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[9月1日]]に[[内閣調査局]]と改称され、内閣調査局も同年[[11月24日]]に廃止された。
 
== 組織 ==