「北条貞顕」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 家督相続 ===
名の貞顕は執権[[北条貞時]]の「貞」父・顕時の「より1字ずつ賜って'''貞」を組み合わせ'''と名乗っものいわれる<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉3頁。</ref>。[[屋号]]を用いて'''金沢貞顕'''(かねさわ -)とも呼ばれる。[[永仁]]2年([[1294年]])12月26日に左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された。ただしこの官職は北条一門では低いほうで庶子扱いであり、出仕が17歳の時というのも遅いものである。これは[[弘安]]8年([[1285年]])11月の[[霜月騒動]]で父の顕時が連座して失脚(顕時の正室は[[安達泰盛]]の娘・[[安達千代野]]である)していたことが影響していたとされる。永仁4年([[1296年]])4月12日に従五位下に叙され、4月24日に右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった。5月15日には左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる。
 
永仁6年([[1298年]])11月24日、[[清原直隆]]より『[[古文孝経]]』を伝授される。[[正安]]2年([[1300年]])10月1日に従五位上に昇進し、これにより霜月騒動以来の昇進の遅れを取り戻した。正安3年([[1301年]])3月に父が死去すると、北条貞時より兄らを飛び越えて嫡子に抜擢されて[[家督]]相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉15頁 - 17頁。</ref>。