「平教経」の版間の差分

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『[[平家物語]]』では、数々の合戦において武勲を上げ、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことはない」「王城一の強弓精兵」と言われる平家随一の猛将であり、[[源義経]]のライバル的存在として描かれている。
 
都落ち後、退勢にある平家の中でひとり気を吐き、[[水島の戦い]]、'''[[度合戦''']]、[[屋島の戦い]]で奮戦して[[河内源氏|源氏]]を苦しめた。最後は[[壇ノ浦の戦い]]の敗戦の中さんざんに戦い、源義経に組みかかろうとするが、'''八艘飛び'''で逃げられ、大男2人を締め抱えて海に飛び込んで死んだ。
 
ただし、[[鎌倉幕府]]編纂書の『[[吾妻鏡]]』では教経はさほど目立たない武将で、[[一ノ谷の戦い]]で[[安田義定]]の軍に討ち取られ、[[京都]]で[[獄門]]になっている。一方で、『[[玉葉]]』、『[[醍醐雑事記]]』などの別の史料では一ノ谷生存説もあり、猛将であったことを含め教経の実像については不明な点が多い。後述の通り、[[平家の落人]]として徳島県[[祖谷]]地方を開拓したのは教経であるという説さえも存在する。また四国・九州に伝わる河童の妖怪[[海御前]]は教経の妻(もしくは母親)の化身だと言われている<ref name="aa" />。
 
== 生涯 ==
教経の経緯は主に[[軍記物語]]の『平家物語』にって、教経の活躍を記述されているる。ただし、『平家物語』は軍記物語なので、必ずしもすべてが史実とは限らない。
 
=== 都落ち・水島の戦い ===
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河野通信が[[豊後国]]住人[[臼杵惟隆]]・[[緒方惟栄|緒方惟義]]兄弟と合流して2000余人で備前国へ渡り今木城に籠城した。教経は2000余騎でこれを包囲し、更に福原から援兵数千騎を得て攻め落とし、臼杵、緒方、河野は逃亡した。
 
これら一連の戦いを'''[[度合戦''']]といい、教経は退勢の平家を支えるべく転戦した。
 
=== 一ノ谷の戦い・討死? ===