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'''マイケル・ドゥーハン'''('''Michael "Mick" Doohan''', [[1965年]][[6月4日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[クイーンズランド州]]・[[ブリスベン]]出身の[[オートバイ]][[レーサー]]。[[1992年のロードレース世界選手権|1992年]]以後のエントリーネームは'''ミック・ドゥーハン'''。[[1994年のロードレース世界選手権|1994年]]から[[1998年のロードレース世界選手権|1998年]]まで[[ロードレース世界選手権]]500cc5年連続チャンピオンを獲得した[[絶対王者]]。兄スコットもオートバイレーサーである。姓は「ドーハン」と表記(呼称)される場合もある。
==略歴==
[[1987年]]にTT-F1世界選手権日本ラウンドにプライベートチームから出場、3位入賞し注目を集める。[[1988年]][[スーパーバイク世界選手権]]日本大会第2レースで優勝。ちなみに日本ではこの年まで「マイケル・ドーハン」と呼ばれることが多かった。[[1989年のロードレース世界選手権|1989年]]、同郷の先輩[[ワイン・ガードナー]]のチームメイトとして[[レプソル・ホンダ|ロスマンズ・ホンダ]]チームに加入し、ロードレース世界選手権500ccクラスに本格参戦を始める。[[1990年のロードレース世界選手権|1990年]]に500cc初優勝、[[1991年のロードレース世界選手権|1991年]]には[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]の[[ウェイン・レイニー]]とチャンピオン争いを繰り広げる(最終的にランキング2位となるなど徐々に頭角を現し、ホンダの新エースとしてチャンピオン候補と目されるようになる。
 
[[1992年のロードレース世界選手権|1992年]]シーズン、ホンダは[[ホンダ・NSR500|NSR500]]に不等間隔位相同爆方式のニューエンジン(通称ビッグバン・エンジン)を搭載し、エースライダーとなったドゥーハンに託した。このニューマシンを駆るドゥーハンはヨーロッパラウンドで開幕4連勝を記録し、第7戦ドイツGPでも勝利するなど、シーズン半ばにしてポイントを大きくリードしたところが、しかし第8戦オランダGPでの予選走行中に転倒を喫し、右足に一時切断も検討されたほどの重傷を負ってい(転倒による傷ではなく、治療時に菌で悪化まう。たとも言われる)、以降4戦を欠場。この間にポイント差をレイニーに猛追されたドゥーハンは最終戦南アフリカGPに強行出場するも最終戦で[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]、結果は4位。こ[[ウェイン・レースで2位に入ったレイニー]]僅差の土壇場で逆転され、3ポイント逆転を許し、差で王座への執念は実らなかっを逃し(レイニーはタイトル3連覇達成)。翌[[1993年のロードレース世界選手権|1993年]]も後遺症に苦しんだが辛抱強く戦い続け、イタリアGPで復帰後初優勝を挙げる。
 
シーズンオフに右足の再手術を受けて臨んだ[[1994年のロードレース世界選手権|1994年]]は右足も癒え、自ら開発と熟成に尽力したNSR500に乗るドゥーハンは他を寄せ付けないパフォーマンスを発揮した。デビュー6シーズン目にして念願のワールドチャンピオンを獲得した。以降、[[岡田忠之]]、[[アレックス・クリビーレ]]らチームメイトの挑戦を退け、1998年までタイトル5連覇という偉業を成し遂げた。この5年間は、全ての年で5割を超える勝率を記録し、特に[[1997年のロードレース世界選手権|1997年]]は15戦中12勝の年間最多勝記録をマークした。
 
しかし、タイトル6連覇のかかる[[1999年のロードレース世界選手権|1999年]]シーズン第3戦[[スペイン]]GP([[ヘレス・サーキット|ヘレス]])の予選走行中に高速の左コーナーで激しく転倒し、右鎖骨、左手首、右膝を骨折する大怪我を負い、残る全てのレースをキャンセル。そのも翌シーズンからの復帰を目指したが、体の状態は事故前までには回復せず、2000年シーズン開幕を前に引退を表明した。引退後は[[ホンダ・レーシング]]のGPアドバイザーなどを務め、[[バレンティーノ・ロッシ]]、[[加藤大治郎]]らをサポートした。
 
== スタイル ==