「里見義通」の版間の差分

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| 戒名 = 天昭院商山正皓居士
| 墓所 = 千葉県南房総市犬掛663
| 官位 = 民部大輔、上総介、上野入道
| 幕府 =
| 主君 =
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従来の説では、第2代当主であった[[里見成義|成義]]の嫡男で里見氏第3代当主になったものの、病弱のために[[永正]]15年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]([[1518年]][[3月12日]])に38歳で病死したと言われていたが、実際には初代[[里見義実|義実]](系譜上は祖父)の嫡男であり、その没年は大幅に繰り下げられて、安房一国の[[戦国大名]]としての基礎を築いた人物とするのが今日の有力説である。
 
史料上の初見は永正5年([[1508年]])であるが、この時には既に安房の大半を掌握しており(『北条五代記』には[[安西氏]]に対して[[下克上]]を起こして安房を平定したのは義通であるという)、[[安房国]][[稲村城]]を本拠とし、弟の実堯に命じて安房北部から[[上総国]]南部を攻略させ、[[正木通綱]]ら安房・上総の[[三浦氏]]一族を服属させた。当初は[[古河公方]][[足利政氏]]に仕え、自らを副師と称しのちに[[小弓公方]][[足利義明]]に従った。永正17年([[1520年]])には[[小弓公方]][[足利義明]]から千葉一族の臼井氏とともに、古河公方派の[[下総国]][[本佐倉城]]および[[下総国]][[関宿城]]攻略への助力の依頼を受けている。古文書などで確認できる里見氏出身の初代「安房国主」である。
 
旧来はその没年を永正15年あるいは[[大永]]元年([[1521年]])とされてきたが、大永5年([[1525年]])ごろまで義通に関する古文書が存在するために実際の死没はそれ以後であり、50歳近くまで健在していた可能性が高い。また、系譜上では父とされている里見成義を架空の人物として、初代・義実の子とする説を採るならば、義通の生年も現存の系譜より以前に遡る可能性が強く、それ以上の高齢であったとも考えられる。更に息子・義豊の里見家当主としての活動が永正年間後半には既に見られるため、それ以前の段階で[[安房国]][[白浜城]]に[[隠居]]していたとも考えられている。
 
{{安房里見氏当主}}