「ルクセンブルク市」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Poohpooh817 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
37行目:
[[ローマ帝国]]時代、2つの[[ローマ街道]]がこの地で交差する要衝点だった。[[963年]]、[[トリーア]]の[[サン・マクシマン修道院]]と交わした交換条約で、[[アルデンヌ]]のジークフリートがこの地を手に入れた。ジークフリートは[[西フランク王国]]の[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]の孫で、[[神聖ローマ皇帝]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の姻戚であった。ジークフリートは、この[[アルゼット川]]に囲まれた岩だらけの崖地に堅固な[[ボック城]]を建設する。地理的に重要な戦略拠点に位置していたため、要塞は強化されて市場もでき、[[12世紀]]末までには市域は西方に今日の[[ノートルダム大聖堂 (ルクセンブルク)|ノートルダム大聖堂]]のあたりまで拡大し、新しい城壁も作られた。[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン盲目王]]の時代には新たな要塞も建造された。息子の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]は神聖ローマ皇帝となり、ルクセンブルク領主は伯爵から公爵へ昇爵した。
 
[[1443年]]、[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]によって征服され、[[ブルゴーニュ公爵領ネーデルラント]]の一部に組み込まれる。その後、スペイン領や[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]領の[[南ネーデルラント]]として[[ハプスブルク家]]の統治下に入る。この時期に城は繰り返し強化され、ルクセンブルクの要塞は欧州でも最も堅固で壮麗なものとなった。
 
[[フランス革命戦争]]ではフランス軍に2度占領される。2度目の戦闘ではフランス軍の包囲を7ヶ月間耐え忍び、難攻不落ぶりで有名になった。「北の[[ジブラルタル]]」という市の愛称はこの故事に由来する。しかし、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍は降伏、ルクセンブルクはフランスに併合される。[[ナポレオン戦争]]が終結すると、[[1815年]]の[[ウィーン会議]]で[[ルクセンブルク大公国]]が誕生するが、実態としては[[ネーデルラント連合王国]]の1州として統治されることになった。しかし一方で[[ドイツ連邦]]に加盟することにもなり、[[プロイセン王国]]軍が進駐した。