「北条朝直」の版間の差分

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| 官位 = 木工権頭、[[式部少丞]]、[[式部大丞]]、<br />[[従五位]]下、相模権守、[[備前国|備前]][[国司|守]] 、[[武蔵国|武蔵]]守、<br />[[正五位]]下、[[遠江国|遠江]]守、同[[守護]]、[[正五位]]下
| 幕府 = [[鎌倉幕府]] [[評定衆]] [[引付衆|引付]]頭人
| 主君 = [[征夷大将軍|将軍]]: [[源実朝]]→[[藤原頼経]][[藤原頼嗣|頼嗣]][[宗尊親王]]
| 氏族 = [[北条氏]]
| 父母 = [[北条時房]]、[[足立遠元]]の娘
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== 生涯 ==
[[建永]]元年([[1206年]])、北条時房の子として生まれる。幼名、四郎。[[元服]]して'''朝直'''と名乗る。これは、第3代将軍・[[源実朝]]の存命中に行われ、[[偏諱]]の「朝」の字を賜ったものとみられる。
時房の四男であったが長兄[[北条時盛|時盛]]は[[北条氏 (佐介流)|佐介流北条氏]]を創設し、次兄[[北条時村 (時房流)|時村]]と三兄[[北条資時|資時]]は突然出家したため、時房の[[嫡男]]に位置づけられて次々と出世する。
 
また、時房の四男であったが長兄[[北条時盛|時盛]]は[[北条氏 (佐介流)|佐介流北条氏]]を創設し、次兄[[北条時村 (時房流)|時村]]と三兄[[北条資時|資時]]は突然出家したため、時房の[[嫡男]]に位置づけられて次々と出世する。
 
正室は[[伊賀光宗]]の娘だったが、[[貞応]]3年([[1224年]])6月の[[伊賀氏の変]]で光宗が流罪となり、[[嘉禄]]2年([[1226年]])2月、[[執権]][[北条泰時]]の娘を新たに室に迎えるよう父母から度々勧められるが、21歳で無位無官の朝直は愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続けた(『[[明月記]]』2月22日条)。翌月になっても、朝直はなおも執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、本妻との離別を哀しむあまり出家の支度まで始めるという騒動になっている。その後も抵抗を続けたと見られるが、5年後の寛喜3年([[1231年]])4月、朝直の正室である泰時の娘が男子を出産した事が『[[吾妻鏡]]』に記されている事から、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られる。なお、この都の公家にまで届いた北条一族の婚姻騒ぎは幕府編纂書の『吾妻鏡』には記されていない。