「ウェイクフィールドの戦い」の版間の差分

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== 戦いの経緯 ==
ヨーク公はすでに[[ヘンリー6世 (イングランド王)|国王ヘンリー6世]]から、ヘンリー6世の死後、王位を彼と彼の相続人に継がせるという約束を取り付ける事に成功していた。[[マーガレット・オブ・アンジュー|女王マーガレット]]はこの力ずくの約束を受け入れる事に不本意で、彼女の唯一の息子である[[プリンス・オブ・ウェストミンスタルズのエドワード|皇太子]]エドワード]](当時6歳)に王位を継がせる決心をしていた。力がヨーク派のそれに数で勝るという状態で、彼女はヨーク公に立ち向かうために北進した。
 
== 戦いの様子 ==
この戦闘の様子については、ヨーク公の第2子である[[ラットランド伯エドムンド]]の「殺人」にクローズアップしてメロドラマ化した[[ウィリアム・シェークスピア|シェークスピア]]の戯曲が最も有名であるが、実際何が起きたかについては確かな事は何も分かっていない。
 
正確な日付も分かっていないのと同様に正確な戦場の場所も分かっていないのだが、最も有り得そうな場所はサンダル城の北のウェイクフィールド・グリーンとして広く発展している辺りである。ヨーク公が死んだ現場に立てられたという記念碑は、その少し南の可能性がいっそう高いとされる場所(「古い記念碑があった」と伝えられる)に置かれたが、後の内戦で破壊された。
マーガレット女王が実際に戦場にいた可能性は低く、[[ヘンリー・ボーフォート (サマセット公)|サマセット伯]][[ヘンリー・パーシ (第3代ノーサンバランド伯)|ノーサンバランド伯]]が戦闘の指揮を執っていたと思われる。
 
シェークスピアの戯曲でのエドムンドは少年として描かれており、[[ジョン・クリフォード (クリフォード男爵)|クリフォード卿]]やマーガレット王女の無用な大虐殺に彼の父親であるヨーク公がその死の前にも苦しめられているところが描かれている。確かに現実でもヨーク公もエドムンドもこの戦闘で戦死するのだが、実際にはこの時エドムンドは既に17歳で、充分戦闘に参加できる年齢に達していた。
 
ヨーク公の敗北は、増援部隊の到着を待つことなくサンダル城を出てランカスター派と対戦したり、彼の軍の力を実際よりも過大評価するなど、彼自身の過度な自信の結果であった。(ヨーク公が股肱戦闘の直前にランカスター派に寝返った[[リチャードジョン・ネヴィル (ネヴィル・ドゥ・レビィ男爵)|ウォーリック伯ネヴィル卿]]に騙されたというのは有り得そうだが。)
 
この戦いの後、ヨーク公と彼の息子エドムンドと[[リチャード・ネヴィル (ソールズベリー伯)|ソールズベリー伯]]の頭は棒に刺され、[[ヨーク]]のミックルゲート・バー(英語:Micklegate Bar。この場合は「城門」)の上に晒された。ヨーク公の頭には紙の王冠を載せてあり、「ヨーク公にヨークの街を見下ろさせてやれ」という札を下げていた。
 
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