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幼少の頃には[[掛け軸]]に細工をして、「[[お神酒天神]]」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で[[本草学]]を学び、[[儒教|儒学]]を学ぶ。また、[[俳諧]]グループに属して俳諧なども行う。寛延元年([[1748年]])に父の死により後役として藩の蔵番となる<ref name="oda2001p190">{{Harvnb|小田|2001|p=190}}</ref>。[[宝暦]]2年([[1752年]])頃に1年間[[長崎]]へ遊学し、本草学と[[オランダ語]]、[[医学]]、[[油絵]]などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に[[婿養子]]を迎えさせて家督を放棄する。
 
[[大阪]]、[[京都]]で学び、さらに宝暦6年([[1756年]])には[[江戸]]へ下っに出て本草学者[[田村元雄]](藍水)に弟子入りして本草学を学び、[[漢学]]を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では[[鉱山]]の採掘や[[精錬]]の技術を学ぶ。宝暦11年([[1761年]])には[[伊豆国|伊豆]]で鉱床を発見し、産物の[[ブローカー]]なども行う。物産博覧会を度々開催し、この頃には幕府老中の[[田沼意次]]にも知られるようになる。宝暦9年([[1759年]])には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職<ref name="oda2001p190" />。このとき「仕官お構い」([[奉公構]])となり<ref>さぬき市文化財保護協会志度支部 - [http://ew.sanuki.ne.jp/snkbunka/sido/gennai.html 平賀源内記念館と平賀源内旧邸] 2013年2月9日閲覧</ref>、以後、[[幕臣]]への登用を含め他家への仕官が不可能となる。宝暦12年([[1762年]])には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、[[杉田玄白]]や[[中川淳庵]]らと交友する。
 
宝暦13年([[1763年]])には『[[物類品隲]]』(ぶつるいひんしつ)を刊行<ref name="oda2001p191" />。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は[[語学]]の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、[[談義本]]の類を執筆する。[[明和]]年間には産業起業的な活動も行った。[[明和]]3年([[1766年]])から[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]の[[秋元凉朝]]の依頼で[[奥秩父山塊|奥秩父]]の川越藩秩父大滝(現在の[[秩父市]]大滝)の[[中津川 (埼玉県)|中津川]]で鉱山開発を行い[[石綿]]などを発見した(現在の[[秩父鉱山|ニッチツ秩父鉱山]])。[[秩父地方|秩父]]における炭焼、[[荒川 (関東)|荒川]]通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の[[中津峡 (埼玉県)|中津峡]]付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「[[源内居]]」として残っている。[[安永]]2年([[1773年]])には[[出羽国|出羽]][[久保田藩|秋田藩]]の[[佐竹義敦]]に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士[[小田野直武]]に蘭画の技法を伝える。