「ヴォロコラムスク」の版間の差分

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[[1178年]]、ヴォロコラムスクは[[フセヴォロド3世|フセヴォロド3世(大巣公)]]により襲われ火を放たれ、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国]]へと編入されたが、大巣公の息子である[[ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)|ヤロスラフ2世]]は[[1231年]]にヴォロコラムスクをノヴゴロドへ返還した。1237年の[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴルのロシア襲来]]後、町は二分され、それぞれノヴゴロド共和国とウラジーミル大公国に属するようになった。[[1273年]]にはトヴェリ公国が包囲したが、占領に失敗した。
 
14世紀前半にウラジーミル大公となったモスクワ公イヴァン1世は、ヴォロコラムスクのうち自分の持分を、大貴族(ボヤーレ)のロジオン・ネストロヴィチに与えた。ネストロヴィチは、当時ノヴゴロドからヴォロコラムスクのもう半分を奪っていたので、ヴォロコラムスクは全て彼のものとなった。[[1345年]]、[[セミョーン (モスクワ大公)|モスクワ大公セミョーン]]はヴォロコラムスクを、義理の父である[[スモレンスク公]]に贈った。[[スモレンスク公国]]の支配下のヴォロコラムスクでは、[[1371年]]に[[リトアニア大公国|リトアニア大公]][[アルギルダス]]による包囲戦が起こったが、3ヶ月にわたる包囲に耐え抜きリトアニア軍は退却した。[[1383年]]、[[ウラジーミル・アンドレーヴィチ (セルプホフ公)|セルプホフ公ウラジーミル]]は[[トクタミシュ]]・ハンをヴォロコラムスク近郊で破っている。その後すぐにヴォロコラムスクをノヴゴロドが奪い返した。
 
[[1398年]]、モスクワ大公[[ヴァシーリー1世]]はついにヴォロコラムスクをモスクワ大公国へと編入した。その10年後、モスクワを占領したリトアニア大公[[シュヴィトリガイラ]](Švitrigaila)へと与えられた。ヴォロコラムスクはノヴゴロド共和国とのつながりや[[ハンザ同盟]]との交易を失い、衰退へと向かい、以後半世紀ほど文献記録には登場しなくなる。[[1462年]]、ヴォロコラムスクは[[イヴァン3世]]から弟の一人へと与えられ、分領公の首都となった。最初のヴォロコラムスク公は、一つのドームのある大理石造りの[[復活大聖堂]]を築いたが、これは現存している。ヴォロコラムスク公の一人で[[スターリツァ]]公でもあった[[アンドレイ・イヴァノヴィチ (スターリツァ公)|アンドレイ・イヴァノヴィチ]]は、[[1535年]]にヴャズミンスキー修道院にドームが三つある[[生神女誕生大聖堂]]を建てている。