「沢田亜矢子」の版間の差分

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}}'''沢田 亜矢子'''(さわだ あやこ、[[1949年]][[1月1日]] - )は、日本の[[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[タレント]]である。所属芸能事務所は、[[オフィスのいり]]。
 
== 人物 ==
[[北海道]][[北見市]]生まれ。[[北海道北見北斗高等学校]]を経て、[[国立音楽大学]]声楽科中退。
 
=== 経歴 ===
[[東京都]]内でピアノの弾き語りのアルバイトをしていたところを[[スカウト]]され、[[1973年]]([[昭和]]48年)、[[岡田嘉子]]が作詞を手掛けた[[シングルレコード]] 『アザミの花』で[[歌手]]デビューした。同年この曲を含む[[アルバム|アルバム(LP)]]『アザミの花/特別なともだち~沢田亜矢子ファーストアルバム』発売(詳細はディスコグラフィを参照のこと)。
 
その後は女優として、『[[大岡越前 (テレビドラマ)|大岡越前]]』(TBS)など、多くの[[テレビドラマ]]に出演。[[1979年]](昭和54年)、[[ワイドショー]] 『[[ルックルックこんにちは]]』(日本テレビ)の[[司会者]]に抜擢されると、その清潔感溢れる[[キャラクター]]から一躍人気者となった。
 
[[1984年]](昭和59年)以降は専ら女優として活動し、『結婚の資格』、『[[芸能社会]]』、『[[我慢できない!]]』などのテレビドラマや、[[映画]] 『せんせい』などに出演した。
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[[2007年]]([[平成]]19年)[[2月]]、それまで未経験であった、歌手としてのコンサートを初開催。同年[[12月]]、58歳にして、初めての[[ヌード写真集]]を発売した<ref>『No KiDDiNG』(双葉社) 2007年12月17日刊行</ref>。
 
=== 私生活 ===
[[1985年]](昭和60年)に週刊誌にスキャンダル写真が掲載。同年4月から渡米し4ヶ月間活動停止した。渡米期間中の8月に[[一人親家庭|シングルマザー]]として長女を出産し、当初は妹夫婦の子とされた。その事実は出産から3年後の[[1989年]]([[平成]]元年)6月の芸能ニュースで明らかになり、その事実を認めた<ref>[http://gendai.net/articles/view/geino/133596 (6)萬田久子を複雑な思いで見ていた? 沢田亜矢子「未婚の母」騒動] - ゲンダイネット 2011年9月21日</ref>。これらによって、従来の真面目なイメージが壊れてしまった反面、テレビの[[バラエティ番組]]等への出演機会は増えるなど、活動の幅が拡がった。また、週刊誌での[[ヌード]]披露が話題となった
 
[[1995年]](平成7年)、自身の担当[[マネージャー]]であった[[松野行秀]]と結婚した。しかしながら、[[1997年]](平成9年)からは以後4年に及ぶ泥沼離婚劇を繰り広げ、松野による[[ドメスティックバイオレンス]](DV)も報じられるなど、[[ワイドショー]]を賑わした。[[2001年]](平成13年)[[3月]]、[[協議離婚]]が成立。
 
[[1995年]](平成7年)、自身の担当[[マネージャー]]であった[[松野行秀]]と結婚した。しかしな、[[1997年]](平成9年)からは以後4年に及ぶ泥沼離婚劇を繰り広げ、松野による[[ドメスティックバイオレンス]](DV)も報じられるなど、[[ワイドショー]]を賑わした。[[2001年]](平成13年)[[3月]]、[[協議離婚]]が成立。
===エピソード===
テレビ朝日「[[愛のエプロン]]」に参戦したとき、長女のかおりに「私のほうが料理が上手」と言われたことがあった。実際、[[2006年]](平成18年)[[1月28日]]に放送された「恋のエプロン」で、かおりが[[シーフード]][[マカロニ]][[グラタン]]を作ったとき、12人中2位という好成績を残し、「特エプ」に近づく腕前を見せたが、亜矢子のほうは「上エプ」に到達したことがなく、実の娘よりも料理が下手という不名誉なことになってしまった。
 
==出演作品==