「三浦半島」の版間の差分

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[[鎖国]]後の江戸時代には[[浦賀]]の町に[[廻船]]問屋が並び、[[徳川吉宗]]は[[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|浦賀奉行]]を設置する。後期には[[フェートン号事件]]などが発生したため、鎖国政策をとる江戸幕府は江戸湾防備のために、[[1810年]]に[[会津藩]]に三浦半島沿岸の警備を命じる。[[1821年]]以降は会津藩に代わって[[川越藩]]がそれを担当した。その後、[[モリソン号事件]]のように外国船が日本近辺に出現して[[測量]]などを行うようになり、[[1846年]]には[[ジェームズ・ビドル]]のアメリカ艦隊が[[三崎]]沖に姿を現し[[開国]]を求めた。幕府は[[1853年]]には[[マシュー・ペリー]]率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、[[久里浜]]に上陸して幕府に通商を迫った([[黒船来航]])。洋式砲術を研究していた幕臣の[[江川英龍]]は、三浦半島に[[砲台]]を築いて防衛線とすることを提言するが退けられた。
 
[[明治]]後には三浦半島は国防上の要衝地と認知される。横須賀には[[横須賀鎮守府]]が設置され、[[日露戦争]]において[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]や[[日本海海戦]]で旗艦として活動した[[戦艦]]「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の本籍地であった。この「三笠」は日露戦争後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され[[三笠公園]]に現存する。[[太平洋戦争|大東亜戦争]]の末期には、[[アメリカ軍]]の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれた。
 
[[戦後]]には消滅した[[日本軍]]に代わりアメリカ軍や[[自衛隊]]の基地が横須賀市や逗子市に多く作られ再び『軍都』となる一方、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の発展に伴い三浦半島でも[[ベッドタウン]]化が進み、2007年現在の人口は62万人であるが、住民の[[高齢化社会|高齢化]]も進行している。