「尺素往来」の版間の差分

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[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[僧侶]]・[[素眼]]によって著された『新札往来』を増補して上下2巻に分けたものとされている。
 
執筆年代に関しては、勅撰和歌集に触れたくだりにおいて[[新後拾遺和歌集]]<ref>「新後拾遺者、為為重卿奉後円融院勅撰之」</ref>が最後に置かれ、[[永享]]11年([[1439年]])成立の[[新続古今和歌集]]に触れられていないこと、[[聖上]]の外祖父が武将を率いる(すなわち、[[征夷大将軍|将軍]])でありながら[[准三宮]]になったと記され<ref>「大相国者、聖上之外祖、武将之厳親、匪啻被蒙准三宮之宣旨」</ref>、聖上は[[称光天皇]]・准三宮は[[足利義満]]を指している<ref>義満の正室[[日野康子]]は[[後小松天皇]]の[[准母]]、息子([[足利義持|義持]])の正室[[日野栄子]]は称光天皇自身の准母にあたり、義満と称光天皇は二重の意味で外祖父と外孫に擬制される関係であった(田村、2013年、P70-71)。</ref>と考えられることから、称光天皇の在位期に書かれたと考えられている。田村航は以上の年代推定と『新札往来』には存在せず『[[公事根源]]』と共通する書(『天地瑞祥志』)からの引用があるのに着目して、称光天皇期の一条兼良(同<ref>称光天皇在位は一条兼良が11歳から27歳崩御あたり、田村説では兼良は27歳)の青年期の著作ということになる。</ref>の著作であるとする説を呈示している<ref>なお、『[[年中行事歌合]]』の増補とされている『公事根源』にも、前者にはなく『天地瑞祥志』から引用されたとみられる記事が存在する(田村、2013年、P72-73・107-112)。</ref>。
 
全文が1通の書簡となっており、その中に年始の儀礼から日常生活までの68条目における単語の解説・用例が織り込まれている。当時の支配層である[[公家]]や[[武家]]の文化・生活・教育の水準を知る上での貴重な資料である。