「松平張忠」の版間の差分

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'''松平 張忠'''(まつだいら はるただ、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[西三河]]地方の[[武]]。[[国人]]領主[[松平氏]]の庶流[[矢田松平家]]の初代当主。松平宗家第4代(安城松平家初代)[[松平親忠|親忠]]の子。通称は[[右京亮]]、助十郎<ref>『[[寛永諸家系図伝]]』によれば親忠の八男。通称も同譜による。</ref>。
 
== 人物概要生涯 ==
『寛永諸家系図伝』・『[[寛政重修諸家譜]]』・『[[藩翰譜]]』のいずれにも通称以外にほとんど詳細な記述はない。しかし、自署のあるものも含め関連する[[古文書]]が数点伝わっている。西三河の桑子([[岡崎市]]大和町)[[妙源寺]]文書によると、妙源寺にて[[永正]]15年([[1518年]])に開催された[[連歌]]の会に宗家5代の[[松平長親]]とともに出席し歌2首を詠んでいることが知れる。
 
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天文7年([[1538年]])3月には嫡子康忠のみの署名で前記妙源寺に[[平岩氏]]より買徳(得)した在所宮石名中の畑地を新寄進している。これには康忠の父・張忠の連署は無く、以後の張忠自署文書も知られない。また、張忠の兄である[[知恩院]]第25世の[[存牛|超譽存牛]]が天文18年([[1549年]])12月20日死去で享年81とされることからも、天文7年3月迄には張忠から康忠へと既に世代交代していたことが考えられる。
 
張忠没後と思われる[[永禄]]4年([[1561年]])4月、[[徳川家康|松平元康]]が発給した都筑[[京職|右京進]]への判物(写)<ref>下記参考文献の2、1140 - 1141頁 「三十九、都筑右京進宛松平元康判物写」および「四十、都筑右京進宛酒井正家副状写」(符牒余録・巻第三十六)。</ref>は「東条の儀忠節」により、「張忠本給」および「中野宗八郎名」から出し置くというものである<ref>下記参考文献の1の153頁で著者平野明夫は、張忠より宛行われたものを元康が都筑右京進に安堵したものとして、都筑右京進を張忠の被官であるとしている。</ref>。
 
張忠の[[菩提寺]]は三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県[[西尾市]]寺津)の剣光院養國寺であり、同寺に埋葬されたという<ref>同寺伝によれば、同寺5代住職・洞順上人の時である、[[延徳]]2年([[1490年]])2月に対[[織田信秀]]との井田の合戦で傷を負った張忠を家臣で寺津の住人朝岡甚八郎が背負って自邸に運び入れ介抱したがその甲斐なく死去したのち同寺に葬ったものという。
 
同寺伝中の「井田の合戦」は松平親忠在世時の「井田野合戦」(「三州八代記古伝集」では[[明応]]2年([[1493年]]))を指すとも考えられるが、当時の対戦相手は[[衣城]]の[[中条氏]]の勢力であり[[織田氏]]ではない(参考文献の1、「明応の井田野合戦」134 - 139頁)。また延徳2年の死去年月日に関しては前掲の張忠寄進状の発給年月日よりも以前となり、両者の附合がせず関連性は不明(下記外部リンク参照)。なお、織田信秀軍との「井田野合戦」は宗家第7代[[松平清康]]死没直後の天文4年([[1535年]])12月12日に行われている(→参考文献の1、「森山崩れ後」265 - 266頁)。</ref>。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
<references />
 
== 参考文献 ==
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{{DEFAULTSORT:まつたいら はるたた}}
[[Category:安祥松平氏|はるたた]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:三河国の人物]]
[[Category:15世紀年不明]]
[[Category:16世紀年不明]]